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「会津の冬」へいざなう 版画家・斎藤清さん(高橋 雅行)2018年3月

 この冬も、雪と闘うニュースが全国各地から舞い込んだ。雪国に住む一人ではあるが、被害に遭ったり、甚大な影響を受けた皆さまにはあらためてお見舞いを申し上げたい。

 

 雪の季節になると、脳裏に浮かぶ版画家がいる。斎藤清さん。どれほどの知名度があるか、推し量る術もないが、没後20年余を経てなお、内外の評価、人気に陰りはない。作品に接する機会がなかったのであれば、この拙文をきっかけに、ぜひ、触れていただければと願う。

 

 斎藤さんは1907(明治40)年、福島県の会津坂下町に生まれた。幼少のころ、家族と北海道に移り、炭鉱のまち夕張や札幌などで育った。看板描きの仕事などで生計を助け、20歳を過ぎて上京した。

 

 以後、職を経ながら、独学で美術を学んだ。サンパウロ・ビエンナーレで受賞するなど数々の国際展で異彩を放ち、近代日本を代表する版画家として名を刻んだ。版画、絵画などあまたの斎藤さんの作品群の中でわたくしが特に引かれるのは、ライフワークともいえる版画「会津の冬」シリーズである。

 

 郷里の会津であれ、北海道であれ、半端ではない降雪量は生活の足かせだったろうし、厄介者でもあったことは想像に難くない。

 

 ところが、斎藤さんが「会津の冬」で描く雪景色は実に優しいのである。屋根を押しつぶさんばかりの雪塊も、どこか丸みを帯びた風情で、人々を苦しめる感は薄い。むしろ、温もりをたたえる構図といっていい。古里への限りない愛情を刷り込んだのであろうか。とりわけ、雪景色の一隅に、採り残された赤い柿の実がポツンと枝にたたずむ光景には、たまらないほどの郷愁をそそられる。

 

 ちょうど80歳になる1987(昭和62)年、神奈川県鎌倉市からいとこの住む会津の柳津町に転居した。当時、わたくしはこの町も守備範囲とする支局に勤務していたため、斎藤さんと懇意にさせていただく運を得た。縁を結んでくださった斎藤さんのいとこの渡部さんご夫妻への感謝の念は今も消えない。

 

 「俺は学校も出ていないから、学術的なことは何にも知らないが、同じことを続けていてはダメだと常に自分に言い聞かせてきた」

 

 偉ぶらず、飾りっ気のないぼくとつとした人柄。能弁ではないが、言葉の一つ一つに重みと説得力があった。

 

 「なぜ雪景色を描くかって…。雪は余計なものを消してくれるし、描きたいものだけを目に入れてくれるから。その構図が自分に合うんだよ」

 

 「会津の冬には詩情を感じさせるもの悲しさが漂っている。生活の厳しさ、寂しさでもあるのかな」

 

 強力なバックボーンなど持たずとも、自身の感性を信じ、黙々と彫り続けた。その一途さも魅力だ。

 

 ある時のインタビューで「郷里を描いて多くの人々から喜ばれ、作品が愛される。うらやましいですね」と語り掛けたら、即座に返ってきた。「とんでもない。制作は苦しいもんだ。周囲の期待が大きくなれば、なおさら」と。功成り名を遂げてなお苦しみがあることを知った。

 

 より深く、より質の高いものを目指すにはプレッシャーとの闘いがある。斎藤さんの生き様そのものがわたくしの処世訓である。

 

(たかはし・まさゆき 福島民報社代表取締役社長)

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