取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
二人の独女性メダリストの涙(岸本 卓也)2018年1月
東京五輪・パラリンピックへの期待が膨らんでいる。五輪憲章には「スポーツを通じて相互の理解を深め、世界平和を目指す」と目的を規定している。東京大会が世界平和に寄与することを切に願う。
毎日新聞社の記者として1992年のバルセロナ(スペイン)夏季五輪と94年のリレハンメル(ノルウェー)冬季五輪に派遣された。夏と冬の五輪をどちらも取材できたことは幸せであった。
バルセロナ五輪は第二次大戦後の東西冷戦が終結した直後の五輪だった。なかでも資本主義と社会主義の二つの国に分断されていたドイツが統一ドイツの選手団を送り込んだことで注目された。
旧東ドイツは五輪を国威高揚の絶好の機会として選手を厳しく鍛え、メダル獲得数で上位国だった。だが、ドイツ統一後はドーピング疑惑を招き、選手たちは「サイボーグ」などと西側各国から揶揄されていた。
競泳女子の400㍍自由形で金メダルを獲得したダグマール・ハーセ選手がドイツのテレビ局のインタビューで泣き始めた。うれし涙かと思ったが、そうではなかった。「私たち旧東ドイツ出身選手は冷たい視線にさらされている」と訴えた。
東西ドイツの統合は対等合併というよりも旧西ドイツによる吸収合併であった。民族統一の歓喜が覚めた後、旧東ドイツの人々の旧西ドイツの人々へのコンプレックスが深刻化していた時期だ。旧東ドイツの優秀で誇り高い選手たちの心はメダルでは癒せないほど傷ついていたのだ。
そもそもバルセロナ五輪は歴史的にもドイツと因縁が深かった。1936年の五輪の開催地にバルセロナが立候補したが、ナチス支配下のドイツ・ベルリンに敗れた。
スペインはベルリン五輪を「人種差別的だ」とボイコットした。
私はバルセロナ五輪の2年後の94年に特派員としてドイツに赴任した。翌95年2月にベルリン五輪の200㍍平泳ぎで金メダルを獲得した前畑秀子さんが80歳で死去した。私は前畑さんに決勝で敗れた銀メダリストのマルタ・ゲネンゲルさんにインタビューを申し込んだ。
ゲネンゲルさんは当時84歳でケルン近郊で家族と共に穏やかに暮らしていた。ライバルの前畑さんに負けたが、77年に二人はベルリンで再会し、50㍍を一緒に泳ぎ、友情を育んだ。それだけに前畑さんが亡くなったことを告げると、落胆の表情を隠さなかった。
戦争の時代を生きたドイツ人にヒトラーやナチスについて意見を求めることは気が引けるが、あえてゲネンゲルさんにヒトラーについての思い出を聞いた。ゲルマン民族が最も優秀な民族であることを五輪で証明したいヒトラーは出場するドイツ選手の壮行会で一人一人に握手して激励したという。
ゲネンゲルさんは苦しい表情で「壮行会で優しく手を握られた。あのころはひどいことをする人には思えなかった」と語った。そして、涙を浮かべ、「ヒデコ(前畑さん)や私が生きた時代は過ぎ去った」と遠くをながめるようにつぶやいた。その5カ月後に前畑さんを追うように亡くなった。
スポーツに打ち込んだ二人のドイツ人女性の流した涙は激動の時代を映し出していた。
(きしもと・たくや 下野新聞社代表取締役社長)