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反骨の刑法学者 団藤重光さん(河野 俊史)2017年12月

スポーツ選手や芸能人の話ではないことをご了承いただきたい。毎日新聞の社会部記者だったころの思い出である。

 

元最高裁判事で東大名誉教授(刑事法)の団藤重光さんのもとに通ったのは30年近くも前のことだ。日本の裁判所制度が1990年11月に百周年を迎えた際、「検証・最高裁判所」という連載を担当した。国のかたちや人権に関わる重要な司法判断でも、個々の事件の判決や決定のプロセスは「評議の秘密」の壁に阻まれて公になることは少ない。石の砦のような最高裁の中で、判事や調査官たちがどんな議論をし、合意の形成にどんな力学が働いているのか。そんなインサイドストーリーを描いてみたかった。

 

米国ではウォーターゲート事件の報道で知られるワシントン・ポスト紙のウッドワード記者が米連邦最高裁の内幕をつづった『ブレザレン』という本が話題になっていた。日本版のブレザレンに挑戦しようと、退官した判事や調査官を訪ね歩く中で出会ったのが、リベラル派で知られた団藤さんだった。

 

テーマの一つが大阪空港騒音公害訴訟だった。周辺住民が午後9時以降の飛行差し止めと損害賠償を求め「百年に一度の大裁判」といわれた事件。最高裁大法廷は81年、飛行差し止めを認めた二審・大阪高裁判決を破棄し、「差し止め却下」の門前払いで住民側請求を退けていた。

 

団藤さんは当時、差し止めを認める反対意見を表明した4人の判事の一人だった。評議の秘密と学者の良心の狭間で、団藤さんは多くのことを示唆してくれた。他の最高裁関係者への取材と重ね合わせ、舞台裏が見えてきた。①大法廷判決の3年余り前の78年には審理を担当していた第一小法廷で「差し止め容認」で結論が固まり、いつでも判決が出せる状態だった。②ところが、当時の岡原昌男長官から「(全判事で構成する)大法廷へ回してはどうか」との意向が伝えられた。憤慨した判事もいたが、事件は大法廷に回付され、最終的に結論が覆った。

 

小法廷で判決が出されていれば、その後の公害裁判の流れは一変していたかもしれない。「許される限り、国民生活になるべく近づけるように法を解釈していく。それが裁判所の当然の任務のはず」。団藤さんは残念そうだった。

 

文京区弥生のご自宅、さらには静養中の別荘にまで押し掛けた。団藤さんの随筆に司法記者のK君として私が登場したこともあった。足しげく通ったのが印象に残ったのだろう。

 

あのころ、団藤さんは急速に「死刑廃止論者」に傾斜していった。「過去に無実の罪で処刑された人がいた可能性があり、明治時代以来、その数はわずかではなかったのではないか。それを思うだけで胸が痛む」。そう繰り返し語っていた。

 

第一小法廷に所属していた当時、団藤さんは「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が再審請求の場合にも適用されるとした白鳥決定(75年)にも関与した。以後、死刑囚が再審で無罪となるケースが相次いだ。

 

「死刑事件における事実認定の重みというものを痛切に味わわされた」と団藤さんは振り返った。それだけに自ら裁判記録を熟読した。評議の席上、うっかり居眠りをし、同僚判事に起こされると「朝の4時まで記録を読んでしまって」と申し訳なさそうに謝ったという逸話も残る。

 

2012年6月、団藤さんは98歳の生涯を全うした。最後まで反骨の人だった。

 

(かわの・としふみ スポーツニッポン新聞社代表取締役社長)

 

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