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「不死鳥の男」と呼ばれた ヤーセル・アラファトPLO議長(川村 晃司)2017年9月

「私はこの場所に平和の象徴であるオリーブと闘争の象徴である拳銃を持ってきた。どうか私の手からオリーブを落とさせないでほしい」と国連総会で演説した男、ヤーセル・アラファト・パレスチナ解放機構(PL0)議長に、カイロで会見した時だ。「カイロの街は好きですか?」との問いに、「カイロはニューヨークのような街だ」と答えた。その後、1989年の来日時、『ニュースステーション』の会見で「東京の印象は?」と聞くと、「カイロの街のようだ」との答えであった。

 

不死鳥の男と呼ばれたアラファト議長にとって「カイロ」「東京」「ニュ―ヨーク」の3都市は、高層ビルに囲まれた〝カオス〟の渦巻く街として共通した感じを持ったようだった。

 

私は1986年から91年にかけて、日本人記者としては幸運にもチュニスで3回、バグダッドで2回、カイロで1回、東京で1回の計7回、アラファト議長と単独会見を行う機会に恵まれた。議長との会見は、チュニスヒルトンホテルに深夜2時すぎにかかってきた電話で起こされて、PLO本部に駆けつけたり、朝食時にカイロの大統領官邸で急きょ開かれるなど、いつ呼び出されるか全く予測がつかない中で行われることが多かった。

 

議長の癖で、彼の体調と機嫌の良い時には、会見の前に独特の「アラファトポーズ」で左手をカメラの前に向けて「カム・オン」と発した。常に拳銃を右腰に携帯していたためか、右手を挙げて迎えられたことはなかった。会見中、私がパレスチナ内部抗争など、議長の好まない質問をすると、必ずパレスチナの苦難の歴史を強調し、具体的なエピソードを交えて自分のペースに持ち込むのであった。

 

しかし、アラファト議長が「ノーコメント」を発したことが1度だけあった。89年2月、カイロでの会見で、私が当時得た情報をもとに中東で活動していた「日本赤軍」とパレスチナ解放運動グループとの資金的な関係について質した時だ。間髪を入れずに私の顔を見つめながら、「ノーコメント」の答えが返ってきた。「知らない」とは言いたくなかったのか、肯定も否定もせず、議長には珍しい一言であった。

 

この問いについては、私はシリアのダマスカスでPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のハバシュ議長との会見でも、「日本赤軍」のメンバーと交流のあったハバシュ氏に質した。このインタビュー前にハバシュ議長の秘書から「日本赤軍の話は聞かないでほしい」と言われていたが、質疑が一段落した時、「ところで、日本赤軍の動向ですが…」と切り出した途端、それまでの医師らしい冷静な答えから一転、声高く「ノーコメント」の答えが私の耳に響いた。この時、指導者の「ノーコメント」は往々にして、取材記者の情報を肯定する傾向が強いことを、私は確証した。

 

最後にアラファト議長に会ったのは、オスロ合意が評価されノーベル平和賞受賞(94年)後、政府招待で96年に訪日した時だ。

 

パレスチナ自治政府初代大統領に就任(96年1月)したばかりのアラファト大統領は、外務省で再会した私に「湾岸戦争後の展開と成果」を語った。握手した右手は以前よりも力が衰えていたが、幾多の暗殺危機を、その都度乗り越えてきた男の余熱が伝わってきた。不死鳥の男が絶頂の時を日本で迎えていたのかもしれない。

 

(かわむら・こうじ テレビ朝日コメンテーター)

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