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長い道のり 被災者に寄り添いながら(岩手日報社 熊谷真也)2011年5月

3月11日。その日は宮古市議会本会議を取材するため、同市新川町の市役所にいた。午後2時46分、立っていられないほどの大きな揺れ。一度は屋外に避難したが、大津波警報の発令で、5階へ向かった。市役所のそばを流れる閉伊川河口付近に向けてカメラを構えた。一度、水がひき、今度は徐々に海面が盛り上がる。ついに黒い波が防潮堤を越え、市街地になだれ込んだ。車が、船が、家が次々と流される。見慣れた街並みは一変してしまった。

 

市役所は1階部分が完全に水没し、市職員とともに孤立した。余震が続き、「建物が倒壊しないか」と不安を抱えながらの取材。市役所ベランダから、とにかく周辺の被害状況を撮影する。家屋をのみ込みながら渦巻く波。建物屋上から救助を求める人々。非現実的なシーンを前に、ただシャッターを切った。

 

固定電話、携帯電話ともに不通だった。「自分自身も安否不明者の1人になったのだ」と実感した。市の対策本部も連絡手段は消防と警察の署員が持ち込んだ無線だけで、情報は断片的だった。夜にやっと1社のみ携帯電話が通話可能になり、市職員に借りて会社に状況を伝えた。眠れないまま、夜をすごした。

 

水は夜間にひいた。12日朝から市役所周辺で取材を始めた。道路はがれきや泥で埋まり、徒歩で移動した。通信手段は限定され、なかなか近隣市町村の様子など被害の全容は把握できない。本社のある盛岡市までの道路は通行できたため、応援の記者が来るまで往復4時間掛けて記事と写真のデータを運んだ。

 

難航する救助活動、物資の不足、生活の再建と時間がたつにつれ、課題は増えた。4月から本社報道部に異動した。被災者から「被害の実情をより多くの人に伝えてほしい」との声を多く聞いた。一方、「津波を思いだす。いつまでにもつらい記事や写真は見たくない」という意見もあった。復興まで長い道のりをいかに被災者に寄り添って、ともに歩むか。考えながら取材を続けている。

 

(くまがい・しんや 1995年入社/2011年3月まで宮古支局長)

 

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