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企業の私物化を批判 異例の大抜擢・山下俊彦さん(伊藤 裕造)2017年7月

山下俊彦さんを「この人は面白い」と最初に意識したのは経団連会館での記者会見の後だった。ホールで社員とやりとりしているうちに、突然階段を駆け下り始めた。エレベーターが来るのを待っていられなくなったのだ。階段10階分を一緒に走り下りなければならなくなった松下電器の方は大変だったろうが、「山下跳び」と言われ、松下幸之助さんから大抜擢されたのを、妙に納得したような気になった。今思えば、決断が速く、即実行される一面がうかがえ、いたく感心したのだ。

 

支局から経済部に移り、2年目、経団連の機械クラブで電機担当になった頃の話だ。朝日新聞では当時、松下は大阪経済部が担当し、東京は日立、東芝、三菱電機などの重電系をカバーしていたので、多少気楽だったこともあり、会える算段はした。大阪に戻られない時、高輪プリンスホテルの1006号室のドアをノックする。タイミングが良ければ部屋に入れる。山下さんはアルコールに滅茶苦茶強く、必ず洋酒の用意がしてあるので、うまくいけばお付き合いできた。

 

状況が変わったのが幸之助さんが1979年6月25日に訪中し、鄧小平に会談してからだった。中国の電子産業の育成に日本の電子産業全体で面倒をみる約束をしたのだ。当時、幸之助さんは84歳。帰国後、真夏の暑い中、電子産業のトップに順次面会し、協力を求める。それぞれ表面的にはそれなりの回答はするが、既に中国の現地生産で苦労しているので、「とても乗れる話ではない。松下さんお一人で」というのが本音。山下さんもそこはわかっている。

 

夏も終わり、秋から翌年にかけて華国鋒主席をはじめ中国の要人が来日する。幸之助さんも、東京の雰囲気が多少わかってきたようだが、鄧小平との約束は守らなければならない。共にするのは三洋電機の井植薫さんだけではなかったろうか。ある晩、「このままでは松下単独でも、となれば、大松下と言えどもつぶれますよ」と山下さんに率直に申しあげた。「わかっている。でも、幸之助さんには、この俺でも言えない」といったようなやりとりが続いた。

 

一方、日本電子機械工業会で懇談会をつくり、どういう援助が可能か検討しようとか、通産省(現・経済産業省)も介入しようとしているなど、混迷し始めてもいた。また、この頃には幸之助さんがメディアとは全く会わなくなっていた。

 

構想が打ち出されてから約3カ月、10月の初めに何とか幸之助さんとの単独インタビューができることになった。30分という制限付きだったが、東京の状況を説明しても、納得されない。中国の近代化に協力することになぜ、前向きにならないのか、もっともな疑問なのだが。ソニーの盛田昭夫会長の、中国との「合弁自体矛盾がある」との声に代表される状況を1時間半余り説明したところ、やっと「あきまへんかな」とつぶやかれた。「松下構想」を実質的に断念される一言だった。

 

それから20年近くたった97年、大阪の経済部長だった私は再び、直接、間接に山下さんの話を伺う機会ができた。その1つが幸之助さんの孫、正幸さんの処遇についての発言だった。「副社長になる能力のない人をしてしまった」と社長世襲の動きにくぎを刺したのだ。当時の森下洋一社長が同意の考えを表明して、さっと収まったが、創業者の影響がまだまだ残る企業私物化の日本の風土に、飄々と反対し続けた人だった。

 

(いとう・ゆうぞう 元朝日新聞経済部長、元東日本放送社長)

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