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新米金融記者の頃  「悲劇の総裁」佐々木直さん(久保 伸太郎)2017年6月

「国民の皆さんに申し訳ないことをしました」―。焦点の人は、そう言って頭を心持ち下げ、目には涙がにじんでいるように見えた。

 

この発言を聞いた瞬間、駆け出しの金融担当だった私でさえ、第22代日銀総裁・佐々木直氏の再任はないと確信した。

 

1974年12月某日深夜、東京・代々木の総裁私邸前。私のほか他社が2、3人。当初は大勢集まっていた。総裁はいったん帰宅しかけたものの、記者がたむろする数に驚いてか、車をUターンさせてどこかに消えた。

 

他社が諦めて三々五々立ち去る中、待つこと数時間、ようやく現れた総裁は、御酒を召しているようだった。

 

総裁から直接、一言を聞き出すまで、私は引き揚げられなかった。当日、「次期総裁に森永貞一郎東証理事長」と他社に抜かれたからである。

 

佐々木氏は1930年入行。早くから抜てきを含め内外の要職を歴任、69年に満を持して総裁に就任した。

 

しかし、日銀のプリンスを待っていたのは、日本を取り巻く経済環境の激変。71年のニクソン・ショック、円切り上げに続く過剰流動性の発生、「列島改造論」を引っ下げた田中内閣の登場と景気の過熱。日銀は金融引き締めが遅きに失したと批判されていた。

 

そこへ、73年秋の第1次石油危機が折からの物価急騰に追い打ちをかけた。トイレットペーパーやワイシャツ、砂糖など白物家庭用品の買い占め騒ぎなど、今では信じられない光景が広がった。

 

冒頭の総裁発言は、ここにつながる。総裁自ら「申し訳ない」と語るとは…まさかまさかである。

 

記者にとって、取材対象にどう接触するかは至上命題。日銀総裁といえば、地方勤務を終えたばかりの新米には雲の上の人。まして、超エリートの佐々木さんは、日銀幹部ですら近寄り難い存在だった。

 

キャップが一計を案じた。国際決済銀行(BIS)への加盟(70年)により、海外出張の増えた総裁を羽田空港の貴賓室でつかまえよう。

 

押しかけると、すんなり同席を許された。毎回、総裁と、同行する秘書と、総裁の知人と、私。

 

「やはり、核兵器を持っていないとなあ」―。石油危機で大騒ぎの時、空港貴賓室で総裁と向かい合っていると、ドキッとするつぶやきが…。

 

「えっ?」と、私は予想もしない総裁の語りかけに、真意を測りかねて質問ができなかった。

 

〝油乞い外交〟を展開する日本の姿がどう映っていたのか。推測や想像はできるが、きちんと尋ねなかった以上、私見は慎む。

「世界の中の日本ということです」―。74年12月の退任会見で、感想を聞かれた佐々木さんは、こう即答した。

 

私にはこの言葉が今なお、ずっしりと頭の真ん中に住みついている。大学卒業前年の67年、仲間と手がけた講演会の講師に映画監督の羽仁進氏を招いた。頂戴した演題が「世界の中の日本」だった!

 

撮影に飛び回ったアフリカ大陸から、遠く日本を見つめての率直な助言だった。

 

国際舞台に早く登場し、安定成長論者ともいわれた佐々木さんが違う時代に活躍の場を得ていたらと、ふと思わなくもない。

以上、ひとつも記事にならなかった老生の記憶談です。

 

(くぼ・しんたろう 読売新聞東京本社相談役)

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