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チベット 幻の山へ 8012メートル峰、頂上の旗(北村 節子)2017年5月

生活情報部というセクションでの仕事が長かった。日々の出来事から世の中を見る、という仕事なので、抜いた抜かれたの戦歴や、政財界の大物と交わった秘話、といったものが残念ながら、ない。が、昭和のあの頃を振り返ると、「年金のことを知ろう」という実用記事が「高齢化で将来危ないぞ」という危機感につながり「社会保障部」という独立部門を生み出すに至っているし、「上手な受診の仕方」みたいな半ば実用記事が、日進月歩の医療技術報告と相まって「医療情報部」を誕生させてもいる。面白い時代だった。

 

◆取材から隊員に

 

で、「秘話」である。右記のような事情で、日常取材の対象は「一般の人」。だから、トンデモ話もあったけれど、それは面白おかしく書ける種類のものではない。ここは私のもう1つのフィールドであった、登山の世界での「失敗談」に近い「秘話」とさせてくださいな。

 

「女は支局に出せぬ」とのことで、本社社会部で新人修行の身だった1973年。「ネパール政府から日本の女子登攀クラブにエベレスト登山許可が出た」(当時、同峰の入山許可は春と秋に各一隊のみ。狭い門だった)というベタ外電を発見した。本格的な登山をする女性はごく稀だった時代、「女性だけで登る」という先鋭的な同クラブは、冬山デビューしたての私にとって刺激的なお姉様集団だった。そのクラブの、なんと野心的な試み!

 

さっそく取材に行き、話を聞くに及んで、即、入隊志願。いくつかの「テスト」を経て、結局、私は75年の「エベレスト日本女子登山隊」の年少隊員になったのだった。会社が後援してくれ、駆け出し記者の隊員参加が許された、よき時代である。

 

この隊の「女性世界初・最高峰登頂」に至る成功物語は多く語られてきたので、ここでは触れない。ただ、新人二等兵だった私は同隊での意外な?活躍もあり、登頂者になった田部井淳子登攀隊長と親しくなった。「ウマがあった」のである。以来、いくつかの海外遠征を共にし、復帰した記者業では、生活情報部の仕事の他、事情が許す範囲で山岳記事も書くように。

 

そしてそんな中、81年のチベット・シシャパンマ峰(8012㍍)の女子隊遠征では、なんと女子隊の隊長・田部井、副隊長・北村という布陣で臨むことになったのである。

 

当時、中国の登山界は海外に門戸を開いたばかり。チョモランマ(エベレストの中国側呼称)には80年に日本隊の大部隊が入山を果たしていたが、シシャパンマはさらに西部の、外国人の入りにくい地域であり、「そんな奥地に行くなら」と、これも会社が取材を条件に参加を認めてくれ、ありがたいことだった。

 

◆田部井隊長と2人で

 

受け入れ側の中国登山協会では、ネパールでシェルパに該当する「協力員」に、四川省第八一解放軍のメンバーを充ててきた。山岳国境警備を担う精鋭部隊、という触れ込みである。

 

荒涼としたチベットの大地を、州都ラサから解放軍トラックやジープで西進すること800余?。目的の山の裾、5600㍍地点にベースキャンプを張ったわれわれは、氷河上に着々とキャンプを進める。かっこいいでしょう?

 

最終局面、私と田部井さんは2つの雪壁を越えて7350㍍キャンプを設営した。私はそこから引き返し、田部井さんは、協力員リーダー、レンチンピンツォともう一人の協力員とを伴って、さらに最終キャンプへ。そして4月30日、登頂。酸素ボンベは携帯したが、無酸素登頂だったという。加えて、頂上直下はピッケルもはね返す硬い氷で緊張した由、翌日、6950㍍のテントで合流した彼女は「疲れた~」と語った。

 

しかし、ともかくも隊は成功した。長くチベット自治区内にあって、外国人には触れることの許されなかった「幻のシシャパンマ」に、われわれは登ったのである。

 

◆国旗が逆だ!

 

なんだ、たんなる自慢話かい、と思われましたか? いえいえ、「秘話」はこれからです。

 

帰国後、頂上写真を現像して、あっと絶句。登頂証拠として貴重なその1枚。田部井さんが掲げる日の丸と五星紅旗。なんと、中国旗が上下逆なのだ!

 

田部井さんは「レンちゃん(リーダーをわれわれはこう呼んでいた)が結んでくれたような」と言う。(デジカメ出現以前であることに留意されたし。現場での確認の術はなかった。加えて、レンちゃんは歴戦の登攀で右手3本の指がない。登頂者はいずれも無酸素、緊張を強いられる状況にあったこともご記憶か)。これは公表できない!

 

救いの神がいた。この遠征には、チベット奥地を撮影したいNHKが名義後援。登山部分以外の撮影をしていたが、いきさつを知ったカメラマンのO氏が「任せろ」と極秘任務を買って出てくれたのである。手練れの腕で、修正は見事に仕上がった。

 

登山界では、頂上写真に手を加えるなど大反則。が、ことは国家の名誉、それにレンちゃんの処遇にもかかわりかねぬ。登頂をねつ造しているわけではないのだから、と、ここに田部井・北村とO氏、周辺の数人の「秘密」が成立。提稿、報道発表がクリアできた。

 

◆奇跡の再会

 

話はさらに続く。公表写真の旗はまっとうな位置ではためいている。が、レンちゃんのその後は? もしや「上下逆」が当局の耳にも届いていたら…。チベット族の解放軍というのは微妙な立ち位置かもしれず、気になる。

 

そんな気持ちのまま、95年夏、私は田部井さんとスイス、グリンデルワルドにいた。2人の年齢の合計が100歳になったのを記念して、アイガーに登ろうとやってきたのだ。まずは物見高くアイガー北壁を貫くユングフラウ鉄道に乗る。列車はずっと岩壁を貫くトンネルを進むが、1カ所、北壁の中腹に窓が開かれ、ガラス越しに内部から外を覗ける展望台があって列車は小停止する。

 

どれどれ、と窓に近寄る私。と、どうも中国人、それもジャケットなんか着慣れない田舎の人、という感じの男性客が2人。当時、中国語に凝っていた私は軽い気持ちで語り掛ける。「中国の人?」「そうだよ」「どこから?」「チベットから」「へえ、チベットは行ったことある。知人もいるよ」「なんていう人?」「レンチンピンツォって人」

 

とたんに、その男は私を正面から睨むように見つめ「それは俺だ!」、続いて「あいやー、ベイツン(北村)!」とあたりが振り向く大声。うっそ~。こんなことってありか!

 

「デンブチン(田部井)も来ているよ!」「どこだどこだ!」――その後、機関銃のようなやりとりを経て、翌日のランチは街で一緒に、となった。15年を2時間で語るのは忙しい。レンちゃんは日本女子隊の登頂支援で階級を上げ、チベットに関心のある欧州のプロ登山家に招かれてアルプス見物に来ていた、という。ご出世! めでたい!

 

思わぬ再会。「けん責はなかった!」という安堵感。どころか、献身的なレンちゃんがあの遠征を機に出世したという嬉しさ。その後、私たちのアイガー・ミッテルレギ稜登攀もルンルン気分で成功し、あれは素晴らしい旅になった。

 

田部井さんは昨年、癌との「果敢で明るい闘病」の末、亡くなった。彼女も上下逆国旗事件「当事者」の1人だったが、もう笑って話してもいいだろう。これは彼女との思い出深い山の歴史の一コマでもある。

 

きたむら・せつこ

1972年読売新聞東京本社入社 

社会部 婦人部(後の生活情報部) 地方部 調査研究本部などを経て 2008年法務省中央更生保護審査会委員 16年高エネルギー加速器研究機構監事

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