ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


3・11から5年:5年生記者は今/先輩記者と東日本大震災(2016年3月) の記事一覧に戻る

この「やましさ」がなくなる日まで(河北新報社 高橋公彦)2016年3月

石巻市北部の北上川河口に位置する長面浦は、細い水路で太平洋とつながる内海だ。山々に囲まれ、穏やかな潟が広がる。東日本大震災まで、西岸の長面、東岸の尾崎の両集落に約700人が暮らし、「お金の他には何でもある」と自慢する豊かな地域だった。

 

津波で壊滅的な被害を受け、ともに災害危険区域になった。一帯のがれきは撤去され、更地や湿地が広がる。「昔の姿を知らなければ、誰もここに町があったとは分からない」。市外からの来訪者だけでなく、住民でさえも異口同音に語る。

 

震災から5年を迎えるに当たり、昨年春から集落に通った。約20キロ離れた内陸部の仮設住宅から通って漁業を続ける若者、地区を離れても祭りを守ろうと奮闘している住民たち、古里への思いを胸に移転地のまちづくりを考える人……。彼らの5年を記録にとどめようと連載を始めた。

 

両地区では115人が死亡、行方不明になった。遺族の取材は欠かせない。ある男性は両親と妻の3人の行方が今も分からない。当時は仕事で家を留守にしており、3人は自宅で犠牲になったとみられる。

 

「この5年、3人は一度も夢に現れない。なぜ逃げなかったと俺に怒られると思っているのだろうか」。男性はつぶやく。さみしさのあまり、霊媒師の元を訪れたこともあるという。

 

「誰もあなたを責めていない」と聞き、安心した。それでも、喪失感は埋められない。

 

遺族を取材するたび、いつも考える。どこまで聞き、どこまで書くべきか。不快な思いをさせていないか。正解はないと分かっているが、それでも悩む。記事になって反応があれば安心する。その繰り返しだ。

 

担当する石巻市の半島沿岸部には75の浜があり、全てが被災した。両地区に限らず、各浜に書くべき話があふれている。そのほかにも中心市街地のまちづくりや震災遺構保存の是非、仮設住宅からの自立と災害公営住宅移転後の支援、担い手の減少が続く農水産業の今後など、被災地の課題は山積みだ。震災というテーマの巨大さを前に、自分の力のなさに呻吟した5年間だった。

 

振り返れば、「東日本大震災」の文字のない記事を書いたことがどれほどあるだろう。入社後、すぐに津波で甚大な被害を受けた名取市の閖上地区に足を踏み入れ、戦場と見まがう破壊の跡に衝撃を受けた。遺体安置所で遺族を待ち、警察担当として行方不明者の捜索にも通った。

 

避難所でのコメント取りに始まり、被災者への取材は今も続く。時間の推移とともに仮設住宅を回り、災害公営住宅を訪ねる。「あんたに話してなんとかなるのか」と言われたことは数え切れない。

 

膝詰めで話を聞き、取材が一段落すると質問される。「記者さんは震災の時にどこにいたの」。いつも一瞬、答えに詰まる。当時は大学の卒業を控え、秋田市の自宅にいた。震災を経験していない。そう告げると、決まって「気にしなくていいのよ」と声を掛けてもらうが、申し訳なさでいっぱいになる。

 

心の中で思う。このやましさがなくなった時こそ、被災地が復興した時なのだろうと。いつかその日が来るまで、書き続けたい。

 

(たかはし・きみひこ 石巻総局)

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