ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


3・11から5年:5年生記者は今/先輩記者と東日本大震災(2016年3月) の記事一覧に戻る

「あなたで良かった」を支えに(岩手日報社 佐々木理沙)2016年3月

道路が波打つ。付近の店舗から人が飛び出す。ガラスが割れる。思わず悲鳴を上げ、身を守った。入社を数週間後に控えた2011年3月11日、東日本大震災が発生した。内陸部の盛岡市で販売店研修の新聞拡張営業に回っていた私の目に飛び込んできたのは、車内のワンセグ放送に映し出される沿岸部の津波。どうしたらいいか分からず、ただ見つめるしかなかった。

 

「これからどうなるんだろう」。漠然とした不安を抱えながら4月に入社。警察担当としての勤務にも少しは慣れた5月、休日を利用し被災地の大槌町を初めて訪れた。人の声がしない町にがれきを片付ける重機の音だけが響く光景は今も忘れられない。被害の大きさを実感し、「これほどの震災と向き合い続けることができるだろうか」と一気に不安が押し寄せた。

 

あれから間もなく5年。県政担当、一関支社勤務を経験し、さまざまな機会に被災地で取材を行ってきた。中でも印象深いのは、震災1年後から掲載している追悼特集「忘れない」。震災犠牲者の人柄と顔写真を掲載し、「生きた証し」を残そうと始まった特集だ。

 

大切な人を亡くした遺族に「故人のお人柄を聞かせてください」と声を掛けるのは、とても勇気のいることだった。大きくくくれば「被災地」の岩手でも、内陸と沿岸の被災状況は比べものにならない。内陸から来た私の言葉や態度が遺族の心の傷を深くしてしまうのでは、という恐怖は常にあった。

 

昨年末、震災から5年の報道に向けた被災者アンケートの取材に携わった。「忘れない」で出会った遺族のみなさんに現在の暮らしや心の状況を聞いた。回答から伝わってくる悲しさや悔しさ、将来への不安、復興が進まないもどかしさ。心の声が端々ににじんでいた。どれだけ時間が過ぎても、被災者の心はなかなか癒やされない。「あの日」で時間が止まった人は想像以上に多かった。

 

現状を目の当たりにし、被災地から離れてしまっていた自分を恥じた。被災地から内陸に戻れば、私には被災者が失った「普通の生活」がある。だからこそ、遺族が話したいと思った時はいつまでも聞こうと思う。心の傷に触れるのが怖い、つらい話題で申し訳ないと思っていたが、アンケートの回答には「震災を伝えていかなければならない」の思いが多く見られた。

 

同じ県民として、発信手段を持っている者としてその役割の一端を担いたい。

 

現在は教育分野を担当している。まだ半年だが、震災が教育現場に与えた影響の大きさを感じている。「津波」の言葉を聞いただけで震えだしてしまう子や、つらさを表現できず内に抱え込んでしまう子。内陸に転勤し、被災体験を語ることができなくなってしまった教員もいる。

 

一方で、震災をきっかけに命を救う仕事や地域を支える仕事を志した学生たちも少なくない。現場の葛藤や、痛みを抱えながらも未来へ向かう姿を伝えたい。

 

震災取材を通し、誰かの救いになるような記事を書くこと、誠実であることが目標になった。人の役に立ちたいとの思いが、私の記者としての原点だ。被災体験を聞かせてくれた人からの「この取材があなたで良かった。大切な宝物ができました」の一言が私を支え、きょうも背筋を伸ばしてくれる。

 

(ささき・りさ 報道部教育担当)

前へ 2019年07月 次へ
30
2
3
4
5
6
7
12
13
14
15
16
20
21
25
27
28
1
2
3
ページのTOPへ