取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
入社時の気後れはもうない(福島民報社 菅野 聖)2016年3月
東日本大震災発生時は新潟大卒業を前に関西地方を旅していた。乗っていた電車が一時停止し、車内が少し揺れた。気にも留めなかったが、神戸新聞の号外で大地震と大津波の発生を知った。福島県二本松市の家族へ電話し、互いの無事を確かめてほっとした。予定通り3月11日の夜行バスで大阪から新潟へ戻った。東京電力福島第一原発の水素爆発は学生寮のテレビで見た。
退寮日に実家から迎えに来た両親は、制限なく給油できるという当然のことを喜んだ。福島県内では物流が停止し、深刻な燃料不足だった。家に向かう車内でマスクを着け、暖房を消し閉め切った窓の外は、いつもと違って見えた。入社して自分に何ができるか見当もつかなかった。
4月1日に福島市の本社で入社式に臨んだ。最初の仕事は「ボランティア」で、高齢独居老人宅の片付けなどを手伝った。地震の揺れが話題になり、経験していない自分は震災を共有できていないと感じた。
震災から約半年後、社会部記者として宮城県に隣接する沿岸北部の新地町で取材した。津波の際にJR常磐線の踏切で遮断機が下りたままになり、踏切に従った町民が津波で犠牲になった、という情報が入り、町にできた約50戸の仮設住宅で被災当時の話を聞き取った。事情を説明すると協力してくれる人が多く、地元紙に寄せられる信頼を感じた。全戸を訪ねたが実際に犠牲になった人を知る住民はおらず、情報の真偽は分からなかった。
JR東日本は大地震時に踏切の遮断機が下りたままになる設定にしており、大津波は想定していなかったことが分かった。先輩記者の助言を得て紙面に載せ、危うさを指摘できた。現在、復旧作業中のJR常磐線は、踏切を立体交差に変える方向で整備が進められている。
入社2年目から沿岸南部に位置するいわき支社報道部所属となり、いわき市や双葉郡町村を取材した。市内には仮設住宅が33カ所あり、32カ所が原発事故で双葉郡から避難する住民に充てられた。アパートや親戚宅などを含めて郡内から2万4000人が避難しているといわれていた。
職人だったある男性は居場所を失い、体調を崩した。楽しそうに花を育てていた女性は古里の話題になると「自慢だった庭は荒れ果ててしまった」と涙を落とした。人口増加による市内の地価高騰や交通渋滞への不満、東京電力の賠償金が支払われる双葉郡の避難住民と支払われない市民との間の不公平感などから、肩身の狭い思いをする避難者もいた。
それでも、避難区域再編で自宅へ自由に行けるようになると取材に応じてくれる人が増えた。住み慣れたわが家に帰れない不安が、どれだけ心の負担になっていたかを痛感した。
2015年4月から本社報道部へ移り、県庁所在地の福島市政を担当している。市民の不安は原発事故由来の放射性物質だが、除染が進み徐々に解消されつつあるようだ。
一方、原発の廃炉は30年から40年かかるとされる。市内の避難者向け公営住宅では「古里に帰るのは諦めた」と話す人もいるが「元気な体で戻りたい」と運動を欠かさない高齢者もいる。
読者に寄り添い復興を見届ける責務が地元紙にはある。複合災害の現実を直視しようと取り組んだ5年間だった。自分にはもう入社時に感じた気後れはない。
(かんの・さとし 報道部記者)