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3・11から5年:5年生記者は今/先輩記者と東日本大震災(2016年3月) の記事一覧に戻る

「未経験の壁」現場取材で超えたい(福島民友新聞社 谷口隆治)2016年3月

東日本大震災の年に入社し、2年目の2012(平成24)年から3年間、南相馬市を拠点に取材してきた。同市は福島県内で最多の636人が津波で犠牲になり、市の一部が東京電力福島第一原発事故に伴う避難区域に指定された場所だ。15年春の異動に伴い、現在は同市の北隣に位置する相馬市と新地町を担当している。

 

この5年間、沿岸市町村を中心に多くの方の涙、苦悩、怒りに触れた。その中でこそ光る笑顔もあった。5年の節目を迎え、被災住民の感情に色を付けず正しく発信し続けることが自分の職責だと再認識している。そのためには非日常が日常になった福島県で、「震災慣れ」していないかを自問自答する姿勢が何より大切だと感じる。

 

震災が起きた時、私は卒業を目前に控える東京の大学生だった。テレビで繰り返される津波の映像に身震いし、福島市の実家に住む両親と連絡が取れたのは日付が変わってからだった。引っ越しの宅配便や福島へ帰る新幹線がストップし、大学の卒業式も中止になった。荷物を友人宅に預け、新年度の直前に再運行した夜行バスでなんとか福島へ戻ったことを覚えている。大学生活の最終盤から一切の現実感がないまま、私の記者生活は始まった。

 

入社後1カ月の研修を終えて記者のスタートを切り、初任地の福島市で毎日、避難所の体育館を取材した。段ボールで仕切られただけの空間に数百人が過ごす光景は今でも忘れられない。避難所で取材を始めてすぐに、「3・11」に自分が県外にいた人間で、震災の経験を県民と共有していないという壁にぶつかった。

 

県内でも地域によって被災の度合いは違うが、震災当日の混乱や空気を知らない私にとって、避難所で取材相手と交わす言葉の一つ一つに、現実味が湧かなかった。原発事故で古里を追われた人、津波で自宅が全壊した人、家族を亡くした人―。壮絶な体験を聞いた後で、「大変でしたね」と陳腐な言葉しか吐けない自分が恥ずかしく、つらかった。私にとって入社からの5年は、被災住民が語る現実と自分のギャップをいかに埋めるかの作業だった。

 

震災後の南相馬市を初めて訪れた11年6月。津波にのまれて見渡す限りが荒廃した沿岸部に、ただただ息をのんだ。原発事故で住民が消え、ゴーストタウンとなった南相馬市の避難区域。立ち入りが自由化された12年4月時点では、津波で被災した車両が町中に転がっていた。南相馬市に隣接し、全域が避難区域となっている浪江町の沿岸には13年4月、車だけでなく至る所に被災した漁船が横たわっていた。全ての光景が、取材相手の話を基に膨らませたイメージや紙面・テレビで見る「被災地」をはるかに超えていた。

 

今でも原発事故の避難区域や沿岸部を訪れる度に、地元紙の記者として、実際に現地を見る大切さを痛感する。震災から5年が過ぎ、こうした土地が復旧していく様子を見るのは何よりうれしいし、地元紙の記者として伝え続ける意義を再確認できる。

 

一方、いまだに仮設住宅に身を寄せ、将来への不安を払拭できずにいる人が大勢いる。県土が再生する明るい側面だけでなく、時間がたったからこそ被災住民が抱える悩みや課題をつぶさに報じることも自分の使命だ。未曽有の災害だからこそ、ささいな変化にも鋭敏に反応し続けたい。

 

(たにぐち・りゅうじ 相馬支局長)

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