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3・11から5年:5年生記者は今/先輩記者と東日本大震災(2016年3月) の記事一覧に戻る

報道カメラマンとしての原体験(共同通信社 中島 悠)2016年3月

「中島、たしか2011年入社だったよな?」。サッカー五輪予選の取材をしていた私は、ドーハでその電話を受けた。「3・11から5年 5年生記者は今」という内容で原稿依頼が来たという内容だった。もうあれから5年がたつ。少しは成長できただろうかという思いとともに、入社した頃の不安な気持ちがよみがえった。

 

入社を控えた2011年3月11日、私は当時住んでいた東京・池袋の駅東口で震災に遭った。建物から避難した人たちで池袋東口5差路が埋め尽くされた異様な光景を、今でも覚えている。走って家に戻りテレビをつけると、津波が太平洋岸に迫るあの映像が中継されていた。

 

内定は一時凍結されるのではないかと思ったが、予定通り4月1日に私は共同通信の記者となった。以前広告会社で働いていた私は、人生2度目の入社式に臨んだ。さあこれから新たな気持ちで、と思う間もなく新人研修を早々に離脱させられ、すぐに配属となった。カメラマンは皆取材に出払い、写真部は閑散としていた。「とんでもない日に配属されたな」。たまに出入りする先輩たちは口々に言った。

 

その日は4月11日で、震災から1カ月の節目の日だった。「撮影と送信のやり方だけとにかく覚えろ」と言われ、カメラとパソコンを渡され、配属翌日から一人で取材に出た。必死でやっているつもりだったが、わけがわからないまま取材しているので、デスクに怒られる毎日が続いた。情けない気持ちでいっぱいだったが、しかし細かく指導してもらう時間がないのも分かるので、注意されたこと一つ一つをなるほど、そういうものかと理解しながら少しずつ身につけていくしかなかった。震災取材とともに始まった不安な日々だったが、毎日4~5件の取材をして体で覚えていく経験は今思えば貴重だった。

 

初めて自分でネタを見つけて記事を書いたのも震災取材のときだった。11年の年末、岩手で取材していた私は仮設住宅の掲示板にあった「楽器の修理します」という貼り紙を頼りに店を訪ね、修理職人の取材をした。修理道具を津波で失ったが、がれきから見つかった楽器を「どうにか直してほしい」と学生が持ち込んできたのをきっかけに、修理の再開を決意したという。

 

それまでは撮影をするだけで人の話を聞く取材はしたことがなかったが、必死で話をメモ帳に書きとめた。写真がなかなか決まらず悩みながら撮影したが、「私も音楽をやっている。そういうこだわり、わかるよ」と言って協力してくれた。

 

後日、読者から反響があり、学生たちの練習場所や防音素材の提供を申し出る連絡があったと電話で聞いた。取材はとても緊張したし、店の扉を開けるかどうか直前まで迷ったが、勇気を持って撮影をお願いしてよかったと思えた。カメラマンの多くが経験していることだと思うが、私にとって取材の結果を実感したのはこれが初めてだった。話を聞いて記事を書き、写真を撮るという当たり前の取材、小さな出来事だが、当時の私にはとても印象的だった。

 

今、私は福岡支社にいる。昨秋、新年原稿の企画取材をする機会を得て、長崎・熊本のキリスト教関連遺産の取材をした。自分で取材計画をたて、自由に動かせてもらった。初めてドローンでの空撮も行った。事件・事故やスポーツとはやはり異なる、とても貴重な経験だった。

 

私はこの企画取材の中で何度も岩手でのことを思い出した。交渉や申請が難航しても、嫌な顔をされても、「取材する意味がある」「取材させてください」と真摯に言えたのは、震災取材でのカメラマンとしての原体験がいつも少しずつ背中を押してくれていたからだ。その体験はこれまでもそうだし、これからも私にとって大きな財産であり続けるだろう。

 

何を取材するにしても、そこに必ず人がいること、それぞれにストーリーがあること、そして勇気を持って取材をすることを忘れずにシャッターを切るよう心がけていきたい。5年間を振り返った「5年後」の今、あらためて思う。

 

(なかじま・ゆう 福岡支社写真映像部)

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