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「原発と津波」の違い実感(団長:坪井ゆづる)2017年2月

とても同じ6年とは思えない。

 

原発と津波の被災地の残酷なまでの違いを実感する2日間だった。

 

まず福島県飯舘村を訪ねた。この3月末に避難指示が解除される。村は引っ越し費用20万円を補助し、固定資産税も4年間は無料にする。来年には幼稚園から中学までの一貫校も創設する。それでも菅野典雄村長は「子どもはほとんど戻らないと考えざるを得ない」「何年か後、村民の20%から30%近くは戻るのではないか」と厳しい見通しを口にした。

 

それが、汚染土を詰めた袋が230万個ある村の現実だ。「避難指示解除はゴールではない。そこがゼロに向かってのスタート地点」。津波被災地は発生時がゼロだったが、飯舘村はまだゼロにすらなっていない。

 

昨年7月に避難指示が解除された南相馬市小高地区は、戻ってきた住民が1割に満たない。そこへ進出した菊池製作所では約20人が働く。震災前には別会社の500人余の工場だった建物はガランとしていた。社員は「スーパーがない」と「人が帰ってこない」を、鶏と卵のどちらが先かと同じように語った。

 

翌朝は相馬市松川浦の漁業施設を見学。漁獲物から放射性セシウムはほとんど検出されないが、スズキなど12種の出荷制限が続く。

 

バスで1時間ほど北上して宮城県岩沼市へ。菊地啓夫市長は「復興は7年計画。来年度でほぼ形が整う」。その象徴で、6集落を1つにまとめた集団移転の先進例、玉浦西地区には約千人の街ができた。ピカピカのニュータウンは、高齢化率34%のシルバータウンだ。それでも住民は新生活を笑顔で話した。

 

最後の訪問先、山元町はJR常磐線の鉄路を内陸につけ替え、2つの新駅の周りに街をつくった。6年で約4千人が流出したが、齋藤俊夫町長は真新しい街での再起を語り、復興を山登りにたとえて「山頂まであと2年」と胸を張った。町の復興を伝えてきた臨時災害FM「りんごラジオ」は、3月末で閉局するという。

 

(朝日新聞社論説委員)

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