取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
700回、39年続いた勉強会 寛容と柔軟の奥野誠亮さん(長﨑 和夫)2017年2月
派閥全盛時代のその昔、記者仲間で政治家を囲む勉強会を作ることがはやったことがあった。政治家の側が持ち掛ける場合もあったが、情報交換の場としてお互い利用価値がなくなると早々に解散してしまうのが通例だった。
41年前の昭和51(1976)年、当時自民党文教制度調査会長だった奥野誠亮さんが田中内閣文相時代の文部省担当記者らに「政治家とマスコミの意見交換、情報交換の場を作ろうと思うが」と声を掛けたのが契機となり、翌52年「二月会」と称する勉強会が発足した。
途中で「一水会」と名称変更したが延々と続き、最後の例会は奥野さんが亡くなるちょうど2週間前の昨年11月2日だった。会場はアジア福祉教育財団の役員室。この財団は奥野さんが文相時代設立に尽力したもので、衆院議員引退後の活動拠点にしていた。
そこで出された昼食を健啖ぶりを発揮して平らげ、1時間余の議論を瞑目しながら聞いていた。例会は最初、月に2回。後に月1回となったが奥野さんは全て出席で全700回余、39年間も続いたのでギネスブックものだろう。
政治家のメンバー人選は奥野さん自身。旧内務省で奥野さんの1年後輩の後藤田正晴さんを筆頭に内務省組だけ。後日、後身の自治省出身議員も加え内務省関連議員全員集合の趣もあった。入閣待機組が多く、同じ時期に現職閣僚が複数ということも何度かあった。
奥野さんといえば、自主憲法制定の信念を貫く保守のバックボーン的存在。竹下内閣の国土庁長官の時に日中戦争に関連して「当時の日本に侵略の意図はなかった」と述べて辞任するなど、物議を醸すこともあった。しかし本人は内務官僚として戦前の国家中枢の一翼を担い、終戦処理にも従事したという自負から決して信念を曲げることはなかった。この辺が硬直したタカ派とみられるゆえんだ。
しかし奥野さんの真骨頂は持論を他人に押し付けることはなく、異なる意見に真摯に耳を傾ける寛容さと柔軟さだろう。
迂闊な話だが、奥野さんの没後に仲人が内務省14年先輩の古井喜実氏だったと知った。内務省時代に対中国認識での懸隔はなかったろうが、国会で議席を並べてから親中派の古井さんとどういう付き合いをしていたか、生前に聞いておけばよかったと悔いている。
奥野さんを語る場合に欠かせないのが奈良の平城宮跡の保存整備問題だ。60年代に当時の池田勇人首相が全域の国有化を表明したが、土地の買収は遅々として進まない。そこで奥野文相が土地の「先行取得方式」という妙案を編み出し、買収が一気に進んだ。奥野さんは奈良にとっても大恩人なのである。
103歳で亡くなった当日は早めに帰宅し、車いすに乗り換えようとしてそのまま事切れたそうだ。
石原慎太郎さんは82歳で議員を引退する時「見回すと国会議員の最高齢になった。かつて奥野誠亮さんという90歳を超えても元気な先輩がいたが、私にその自信がないから」と語った。当時この話を「妙なことを言う人だ」と奥野さんに披露したら苦笑いしていた。ちなみに議員在職中に90歳を迎えたのは憲政の神様の尾崎行雄、原健三郎元衆院議長と奥野さんの3人だけだ。なおこの際、蛇足だが、歴代首相の長寿トップは東久邇稔彦さんの102歳だったことを付言しておこう。
(毎日新聞出身)