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「権力は明け渡す方が一層難しい」――30年前のソウル民主化デモ取材(山岡 邦彦)2017年2月

 

ソウル特派員は記事には事欠かない。私が駐在した1984年からの4年間、ニュースは尽きなかった。

 

1984年、韓国の全斗煥大統領を迎えた宮中晩さん会で、昭和天皇が述べられたお言葉を韓国人がどう受け止めたか、ソウルで聞いて回った。

 

1985年、前年に実現した北朝鮮から韓国への水害救援物資引き渡しを機に、南北対話が活発化し、ソウルに北朝鮮から離散家族や平壌芸術団メンバーがやってきた。

 

1986年、ソウル五輪の前哨戦となるアジア競技大会が開かれ、国交のなかった中国からの選手団が韓国とメダルを競い合った。

 

1987年夏、民主化要求デモの取材は、1カ月近く続く長丁場となった。

 

翌88年のソウル五輪開催に備えるためか、韓国は26年ぶりにサマータイムを採用し、日本より西に位置しているにもかかわらず時計の針は1時間進んでいる。連日夜遅くまで続くデモを追いかけ、その背景や政治の方向性を探り、日本の締め切り時間に合わせて最終版まで原稿を送ったが、何だか実働時間で損をしているような気分になったものだ。

 

◆政治不在の中で始まった衝突

 

デモは、与党が党大会で次期大統領候補に盧泰愚代表委員を指名した6月10日の夕刻に始まった。野党と在野勢力が組織した「国民運動本部」が、党大会当日に合わせて反対集会とデモに打って出たのだ。

 

与党総裁の全斗煥大統領はその2カ月前、「国論を分裂させて国力を浪費する消耗的な(国会での)憲法改正論議をやめる」と在任中の改憲を否定していた。大統領選は選挙人団を介する間接選挙制で行うことにして、直接選挙制への改憲を主張する野党を置き去りにしたのだった。

 

警察が厳しく規制したため、国民運動本部の反対集会は不発に終わる。だが、学生たちは「護憲反対、独裁打倒」と叫びながら、あちこちで警察と衝突した。警察が催涙ガス弾を浴びせるが、離合集散を繰り返す多発デモを押さえ込むことはできない。

 

数百人のデモ隊がソウル中心部にあるカトリック明洞聖堂の敷地内に駆け込み、そこから連日、近くの繁華街へと出撃し、一帯はまひ状態に陥った。警察との攻防を見守る野次馬からデモへの声援が飛ぶようになり、中には加勢する者まで現れる。

 

騒乱が釜山など地方都市にも拡散し、事態収拾のめどが立たなくなるにつれ、衛戍令などの宣布で軍が治安維持に出てくるのは時間の問題のように思えた。米国は強く自制を求め、レーガン米大統領から全大統領に親書を送るなどした。

 

ドン・オーバードーファー著『二つのコリア』(共同通信社、菱木一美訳)によると、全大統領に親書を伝達した際、ジェームズ・リリー駐韓米大使が、軍部の介入は米韓同盟関係を危うくし、80年の光州事件のような悲劇を繰り返すことになる、と強く警告したという。

 

そんなある日、軍や政府で要職を務めた長老たちの小人数の会合に呼ばれて、意見を求められたことがある。現象面ばかり追っている外国人記者に知恵があろうはずもない。ただ、打開策を模索する真剣な姿に、居住まいを正す思いだった。

 

◆「同床異夢」だった民主化

 

全斗煥政権は、1979年10月の朴正熙大統領暗殺後、戒厳令下の粛軍クーデターで権力を掌握した「新軍部」を核とする新興勢力だ。旧体制の金鍾泌、金泳三、金大中の3金氏を含む有力与野党政治家たちを一斉にパージし、新聞・テレビ局を統廃合して言論を統制するという荒っぽいやり方で登場した。金大中氏は内乱陰謀罪で死刑まで宣告された。

 

与野党の指導者間に対話はなく、反政府デモの収拾策をめぐって6月24日に会談するまで、全大統領は野党の金泳三総裁と一度も会ったことがなかったのである。その会談も実りなく終わった。

 

野党の要求には応じられないと断言していた盧泰愚氏が、6月29日朝、出し抜けに記者会見を開き、野党側の要求を丸のみして、大統領直接選挙制への早期改憲や金大中氏の赦免・復権など8項目の民主化措置を列挙した民主化宣言を発表したのだから、皆が驚いた。2日後、全大統領がこの収拾案を受諾すると、民主化要求デモはようやく鎮静化した。

 

与党にとっての「民主化」は、譲歩することだった。盧氏のイメージは一気に好転する。新憲法下、16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙で盧氏は36・6%の票を得て勝利した。全大統領には公約の「平和的な政権交代」が最も望ましい形で実現したと言えよう。

 

野党にとっては、政権奪取が「民主化」だった。直接選挙制への改憲は、そのための唯一の道だった。金泳三、金大中両氏はそれぞれ自分の勝利を確信して互いに譲らず、候補一本化に失敗したため野党陣営は票も二分し、敗北した。だが、両金氏は後に大統領の座に就いた。

 

デモの主役だった在野勢力や学生は、「民主化」を現体制の打破と捉えていた。疎外された民衆を主人とする社会主義体制への移行と、民族統一を志向していた。民族解放人民民主主義革命という北朝鮮の対南革命論が影響を与えていた。

 

あれから30年。今日の韓国政治は、この民主化の延長線上にある。

 

昨年10月末に大統領の友人女性の国政関与疑惑が浮上した直後から、朴槿恵大統領の退陣を求めるデモが、ソウルで続いている。大統領本人が納得のいく説明をしないでいるうちに、土曜日ごとのデモは回を重ねるたびに盛り上がった。

 

その勢いに乗るようにして、国会は弾劾訴追案を可決した。朴大統領は職務停止に追い込まれ、韓国憲政史上初の弾劾による罷免という不名誉な退任の危機に瀕している。

 

◆過去となった強権政治

 

労働組合や市民団体が組織したデモには昨年11月中旬、主催者側発表で100万人、警察の推計でも26万人が集まり、メディアは「1987年の民主化以降、最大規模」と伝えた。

 

当時、最大規模だったのは、催涙ガス弾直撃で死亡した延世大学生の追悼デモ(7月9日)だ。葬列に加わった人波はソウル市庁舎前のロータリー広場を埋め尽くし、主催者発表で100万人、警察推計で13万人に上った。プレスセンターから見下ろしていると、米人女性記者が「オー、ピープルパワー」と感に堪えぬ口調でつぶやいた。フィリピン政変のデモを想起したのだろう。

 

やがて、1万人ほどが青瓦台(大統領官邸)方向に進み始めたが、光化門交差点前で何重にも阻止線を張っていた機動隊から催涙ガス弾を発射されて解散した。

 

今の朴退陣要求デモに、あのころの緊迫感はない。民主化後の歳月は、強権政治を過去のものにした。

 

そろいのゼッケン姿の団体が所定の位置に整列して座り込んでいく光景は、政治集会そのものである。家族連れや高校生たちの姿もあるし、土産物屋や屋台が店開きし、仮設舞台では歌や踊りのパフォーマンスが演じられる。なんだか、お祭りか縁日のようでもある。警備にあたる機動隊の対応も実にソフトだ。

 

政治日程も見通しがきく。弾劾、罷免なら大統領選挙が繰り上げ実施されるだけだ。

 

政治の季節が始まれば、白熱した選挙戦が予想される。退陣要求デモの担い手は、在野勢力の流れをくむ左派系の活動家たちだ。蓄積した大衆動員のノウハウを生かして大統領選を有利に進めるつもりだろう。

 

保守政党と左派政党の違いは、本質的には北朝鮮との距離感にある。保守政権は、北朝鮮に制裁を強化するなど厳しく対処してきた。一方、左派の最大野党「共に民主党」は、北朝鮮との関係推進に力点を置く。

 

88年1月、あと50日足らずで退任というとき、全大統領は韓国人記者団に、こう語っている。「わが国では、権力というものは座っているときよりも明け渡す方が一層難しい」

 

朴槿恵氏の心境をぜひ聞いてみたい気持ちだ。

 

やまおか・くにひこ

 

1953年生まれ 78年読売新聞社入社 84~88年ソウル支局長92~95年ニューヨーク特派員 国際部次長 論説委員 論説副委員長など 2014年退社 現在北海道教育大学函館校教授

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