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ベルリン:チロル山中に脱出 最後の特派員電打つ(江尻 進)1995年8月

日米開戦の際に、ベルリン特派員だったが、真珠湾攻撃の数日後の一九四一年十二月十日の大島浩駐独大使の祝賀会の席上のことである。公の席に初めて顔を見せた新任の海軍武官・横井忠雄中佐の「今は勝った勝ったと浮かれているが、この戦争で日本は負ける」との、ハッキリした断言に驚かされた。輝かしい戦勝を報じる号外戦の最中である。その発言の根拠は、潜水艦で日本から欧州へ出発する直前に、日米戦争を予測した陸海軍参謀の図上作戦を三度繰り返したが、いずれも「日本敗戦」の結論になったというのである。

 

ドイツは、その数日前からモスクワ正面の戦線で、零下三十度の厳寒の下で、ソ連軍の猛反撃にあい、初めて後退に追い込まれた対ソ戦の敗戦の始まりという気運である。明るい戦局を打電できなくなった、特派員の悩みは日々に深まる。独伊政府は日米開戦の三日後に、対米宣戦を布告し、形式的にはおおいに気勢を挙げていたが、市民の空気は「米国を戦争に引き入れる余計なことを」と恨み気味である。

 

一九四二年の前半のマニラ、シンガポール占領が過ぎると、日本はガダルカナル島撤退、ドイツはスターリングラードでの大軍の降伏と、日独とも敗戦の形勢が濃厚になってくる。四四年初夏の連合軍のノルマンディー上陸、東からのソ連軍の東プロシアへの進軍で、東西からのドイツ包囲網は狭まる一方となった。四五年春には、ベルリンの郊外で市街戦が展開されだした。私は南北に二分した南政府に随行を要請され、四月十三日(金)の最後の列車で、ベルリンを退出した。ヒトラー自決の半月ほど前のことである。

 

プラハやザルツブルグを経て、南政府の所在地のスキー競技で有名な、ガルミッシュ・パルテンキルヘンに到着するのに一週間がかりだった。普通なら六時間ほどの行程である。たどりついたら、三日の滞留だけは許可されたが、結局「ここは政府要員を収容する余裕しかない」との言い分で追い出された。

 

次いで三日がかりでやっと到着したのが、イタリア国境の、今はオーストリア領の山中の小温泉村の、バード・ガスタインであった。大島大使など外交団の避難地である。大使館員や、ベルリンやローマから避難してきた日本の民間人など、百二十人が二つの宿に収まっていた。仲間には各国語の専門家がそろっていたので終日にわたる語学講座と、ベルリン日本学校をそのまま移した少人数の小学校も開校されて、賑やかな生活になった。

 

四月三十日から、英独文の電報なら随行の二課長の検閲で、スイス支局経由で日本に打電できることになった。五月一日は雪の降りしきる、寒々とした日であった。午後五時のハンブルク放送が、「近く重大発表がある」と伝える。午後十時三十分まで待ったら「ヒトラー総統は、ベルリンで壮絶な戦死を遂げた」との短い発表である。夜半にかけて取材し、雪路を踏み分けて翌朝早く発信したのが、六年余りのベルリン特派員としての、最後の打電になった。

 

それから南独占領の米第七軍の監視下の、三カ月の抑留生活の後に、フランスのル・アーブル港から、米軍輸送船で米国に向かう。出航四日目の八月七日の夕刻の船内アナウンスで「広島に強烈な爆弾投下、四十八時間以内の降伏を求める対日最後通告発出」との第一報。次いで八日夕刻には、ソ連の対日宣戦と、長崎への「強烈な爆弾投下」が伝えられる。同行の陸軍技術将校から「これは原子爆弾というもので、日本でも理化学研究所で研究中」との解説を聞く。

 

懐中日記の端に、「大国民の神経はもっと太かるべし」との走り書きが残っているのは、一同の余りの狼狽ぶりを見ての、我と我が身への自戒の言葉であろう。

 

(えじり・すすむ 当時同盟通信ベルリン特派員)

 

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