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ストックホルム:ポツダム宣言受諾 公使が特派員を集める(佐々木 凛一)1995年8月

一九四五年八月一五日、私はスウェーデンのストックホルムにいた。身分は同盟通信社の記者。支局長は斎藤正躬君(故人)。イタリアの対連合国軍単独講和、ムッソリーニの北伊での新共和国成立を見た後、四年近い在伊の思い出を抱いてベルリン支局(支局長江尻進君)へ転出した。第二外国語で、それも大体忘れてしまったドイツ語を、字引きをひきひき新聞を読んでも打電のネタもつかめずウロウロしているところへ、斎藤君からの誘いがあって、ストックホルムに来ていたというわけだった。

 

ベルリンからの赴任が四四年十一月のこと。ドイツは西はカナダ、英、米連合から、東はソ連軍からの二面作戦をうけて、にっちもさっちもいかない状態だった。日本軍はレイテ沖海戦で大敗後、沖縄ではすでに空襲が始まり、敵の上陸も近かろうというところだった。

 

スウェーデンはポルトガル、スイスと並んで戦時の三中立国の一つだから米英の新聞、雑誌も手に入るし、ロンドンからのBBCラジオも役に立つかもしれぬということで、私が呼ばれたのだった。ドイツからの戦況はDNB放送や特派員電で東京に行っているだろうから、ストックホルムからは、二、三日遅れの米英紙をニュースソースとして、ストレートニュースは避け、ひま種専門で東京へ打電した。

 

ストランド・ホテルというストックホルムで二流のホテルが同盟支局だった。斎藤君と二交代で米英新聞を読み、助手にスウェーデン語新聞を読ませた。そして電文を作り、電信局へ持っていって打電してもらう。

 

同盟と外務省との間には同盟創立の時からのいきさつで、「特情」というものがあった。新聞電報が普通電報の三分の一の料金で打電できるということを利用して、各地の大使館または大公使館付陸海軍武官室が、暗号電報でない平文を東京に送っていた。宛先は「PRESS・DOMEI・TOKYO」で、本文の始めに「TOKUJO」とあれば、同盟の着電として配信してよかったが、必ず電文を外務省の情報部A課長に届けなければならなかった。

 

四五年八月十日早朝、天皇の聖断により、日本政府は国体護持の条件をつけて、ポツダム宣言を受諾することに決定、外務省は受諾の旨を駐スウェーデン公使と駐スイス公使に打電した。駐スウェーデン公使はソ連、英国政府へ、駐スイス公使はアメリカおよび中国へ伝達せよ、との訓電だった。

 

ときに八月十日午前七時(時差の関係でストックホルムでは同日午前零時)。岡本季正公使は、現地時間十日午前十時ごろ、スウェーデン・ソ連公使(有名なコロンタイ女史は当時病気中で代理公使がおかれていた)および駐スウェーデン英国公使あてにこの決定を伝えた。帰館後、在留邦人(おもに朝毎読同盟の特派員)を公邸に集め、この旨を発表した。

 

岡本公使は大変緊張した面持ちで、日本政府が今日ポツダム宣言受諾を決定したこと、直ちに在ストックホルムの英ソ公使に通告したことを告げ、「諸君はこの降伏決定後も、外国人側からあなどりを受けるようなことのないように言動に注意されたい」と言うのであった。

 

ナチ・ドイツの降伏が公表された五月七日の夕刻、ストックホルムの街頭は、ヨーロッパの戦争は終わった、もう大丈夫と思った市民たちが互いに握手や抱擁を交わし、空には方々で花火が打ち上げられるという賑やかさであった。しかし、日本の降伏通告は遠い極東のことではあるし、十五日の天皇の放送までは未定の要素があったせいか、ドイツ降伏の際のような市民の歓びではなかった。

 

(ささき・りんいち 当時同盟通信記者)

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