ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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北千島・北京:従軍カメラマン 北京で玉音放送きく(西井 武好)1995年8月

波乱に満ちた終戦当時の思い出を綴ってみる。同盟通信社のカメラマンであった私は、昭和十九年一月、戦時中の翼賛帝国議会で、あやまって議場の二階から望遠カメラを落とし、陸軍中将の頭を割るという珍事件を起こした(これはクラブ会報「とっておきの話」に書いた)。その後旬日を経ず、報道班員として北千島の陸軍部隊に従軍した。当時の北方戦線はアッツ島の玉砕後、キスカ島からの撤退、そして千島列島全域に部隊が展開していた。

 

報道班員は同盟をはじめ朝、毎、読、道新など記者、カメラマン十二人。いよいよ出発となり、小樽港から輸送船に乗り込む。港には輸送船が二隻停泊していた。一隻は伏見丸という新造船で、見るからに軽快そうで格好よい船だ。もう一隻は日振丸という老朽船で、船体は伏見丸より大きかったが、停泊しているときから船が大きく左舷に傾き、速力もにぶそうだ。

 

報道班は最初、伏見丸に乗船することになっていた。ところが出港直前に日振丸に変更とのこと。輸送指揮官と交渉したが「伏見丸は船がせまい。報道班に窮屈な思いをさせたくない」と説かれ、しぶしぶ日振丸も乗ることになる。ところがこれが運命の岐路となるとは。

 

小樽港を出港した両船は、前後を駆逐艦に護衛されながら北の海に向かう。そのころの北方海域はものすごい濃霧の季節で、津軽海峡を出るころは、すでに僚船の姿は見えなかった。やがて船はエトロフ島の天寧に着いた。先着しているはずの伏見丸の姿が見えない。敵潜水艦の攻撃を受けたとのことだった。後日談だが、そのころ札幌では新聞各社間で、北方陸軍報道班員の合同葬が予定されていたという。

 

北千島から命からがら帰ったら、今度は北京に行けとの社命だった。下関から釜山へ、列車で朝鮮半島を縦断、北京到着は二十年の一月。

 

華北総局在勤中は北京郊外など精力的に取材した。そして中国大陸での日本軍にとっておそらく最後の作戦と思われる老河口作戦に従軍した。従軍中、電通時代の先輩である山本カメラマンに会う奇遇もあった。山本さんは北京の東亜新報(社長は当時日本新聞界の長老徳光衣城氏)に勤務していた。老河口作戦を終え、北京へ帰ったのは六月、内地では沖縄戦の戦闘がし烈をきわめていたころだ。やがて八月、終戦となる。玉音放送は北京総局で聞く。

 

敗戦にはなったが、特に身に迫る危機感はなかった。それというのも、蒋介石総統が在華日本人の生命の保証をいち早く声明したからであった。ソ連軍に占領された旧満州地区にいた日本人同胞のことを思うと、我々は幸運だったのかもしれない。しかし、敗戦国民の屈辱はやはり身にしみる思いだった。同盟の通信施設は接収され、社員は分散して収容された。北京郊外の西郊収容所には大勢の日本人が収容されていた。ここで、同盟は情報屋らしく「かわら版」を出していた。短波無線機でニュースを聞き、編集してガリ版印刷して所内に配布、みんなから喜ばれた。

 

そして十二月、内地送還となる。西郊から無蓋貨車で天津へ、太沽から米軍のLST(輸送船)で日本へ。快晴の朝、佐世保湾に帰着した。

 

(にしい・たけよし 当時同盟通信写真部記者)

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