ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


戦後50年 の記事一覧に戻る

東京:欧米部別室 トイレット通信社(渡辺 善一郎)1995年8月

真夏の陽がギラギラする暑い日だった。世田谷の代田二丁目。五月の空襲で焼夷弾を落とされたが幸いにも消し止めた家の居間で、母と叔母と私、それに隣家の竹内さん夫妻が正午に予告されたラジオのまわりに集まった。

 

すでに「お手あげ」はわかっていたので、それほど強い衝撃はなかった。雑音がまじる放送、初めて聴く天皇の独特の抑揚のある声。漠語調の羅列。『忍び難きを忍び...』『ポツダム宣言を受諾せんとす』などという個所が耳に残った。「やっと長い戦争が終わった」との思いか汗か眼に入った。母も竹内さん夫妻も声こそ出さなかったが、ハンカチで顔を覆ってしまった。そして思いは疎開した妻と幼い娘のことだった。不思議にも前夜遅くまで灯火管制下の暗い社内で口角泡をとばし、やっと帰宅した疲労感は消えてしまっていた。

 

社へ行かねばならない。配給米に豆をまぜた弁当を持ちゲートルを巻いて代田二丁目駅(現在の京王井の頭線新代田)に向かった。人通りも少なく静かだった。ただセミの鳴き声ばかり耳に残っている。駅のベンチに腰かけ、いつ来るかわからない電車を待った。「そうだ。もうゲートルはいらないのだ」。それをほどきながら「多くの犠牲者を出したこの戦争、十五年戦争は一体何だったのか。これからどうなるのか」など改めて万感の思いがこみ上がった。

 

有楽町の本社にたどり着き、焼け残った三階編集局に上がった。職場の欧米部のデスクのまわりには、各部の何ともいえない顔、顔があった。いつもなら大声が飛び交う編集局も重苦しい雰囲気に包まれていた。新聞用紙も底をつきペラ一枚の朝刊だけだったが、何よりも新聞をつくらねばならない。「これから米軍はどう出てくるのか」。それが皆の関心の的だった。それには欧米部の情報が唯一の頼りだった。

 

真珠湾以降、それまで契約していたUP通信(現在UPI通信)の配信がストップ。東亜部管轄下のアジア地域を除けば、欧州に散在する特派員記事では間に合わなかった。生のニュースがほしい。その対策として作られたのが俗称『トイレット通信社』だった。

 

三階の婦人用トイレをつぶし、社有のRCA短波ラジオ三台と、タイプ、二段ベットを急造し、厚いカーテンで覆われた「欧米部別室」が出現した。当時、外国ラジオの聴取は内務省令で禁止されていたが、新聞社はそのワク外と勝手に判断して踏み切った。

 

「トイレ通信社」が最も頭を悩ましたのは英語のベテラン、特に英語放送を聴取できる人たちだった。「英文毎日」の加藤英明君(シカゴ大学出身・二世)が中心となり、七、八人の「二世部隊」が集められた。そこでは外国ラジオのニュースや論評を聴き、速記したり、その要点を雑用紙にタイプする。出来上がると欧米部と結ぶブザーを押す。欧米部の記者が駆けつけ、そのニュースを取捨選択し、使えるものは本社特派員がいたリスボン、ストックホルム、チューリヒの名を使い特電として紙面に掲載した。日本側の戦況が悪化し沖縄戦以後、日本に接近する米艦の暗号によらないナマ交信も入った。「日本、ポツダム宣言受諾。無条件降伏」の報も、八月十二日には「トイレ通信社」が傍受した。

 

八月十五日からしばらくの間、心身ともに深い疲労と虚脱感。どうなるかの不安感。その半面、戦争の恐怖からの解放感。さらに軍部や政府に操られ、それに迎合し、国民を煽った新聞の責任という重苦しい罪悪感。どうしたら立ち直れるか。もろもろの思いが編集局を覆っていた。今日の日本の姿を想像すらできない日々だった。

 

(わたなべ・ぜんいちろう 当時毎日新聞欧米部記者)

前へ 2024年03月 次へ
25
26
27
28
29
2
3
4
5
9
10
11
12
16
17
20
23
24
30
31
1
2
3
4
5
6
ページのTOPへ