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ラバウル:地下壕の編集局 陣中新聞を発行(山崎 英祐)1995年8月

赤道を越えた南半球の前線基地ラバウル。そこではすでに終戦を迎える1年半も前から、将兵十万が地下に潜っていた。「十年戦争だ」あるいは「内地へ逆上陸」などの合言葉を口にしながら掘り続けられた地下壕はトータルで二百五十キロ、東京から浜松までの距離に相当した。

 

将軍も、参謀も、兵も、全員が壕内で寝起きし、日中は敵機の銃爆撃を避けながら自給自足のため農作業に励んでいた。

 

私たち読売、朝日、毎日、同盟の四社特派員も、ラバウル市内の支局を爆撃で吹き飛ばされてからは山中に移動、図南嶺(となんれい)と呼ばれる軍司令部の地下壕に身を寄せて、陣中新聞の編集発行に取り組んでいた。

 

題号は「ラバウル新聞」。B4判ザラ紙のうらおもて二ページ、謄写版印刷で発行部数は三百部である。十万もの将兵を読者とする唯一の陣中新聞がわずか三百部とは信じられない話だが、刷りたくてもこれ以上は熱気のために原紙のローが溶けてしまうからだ。

 

谷間の気温は夜明け前に急に冷える。その冷気を利用して、壕舎入り口に謄写版を運びインクローラーを静かに回転させる。二百部を越えると鉄筆の文字がにじみはじめるのでゆっくりとローラーを押す。印刷熟練の兵隊の腕の見せどころで、まさに神に祈るような場面だ。

 

紙面は、一面が大本営業発表や各地の戦況で埋められ、二面は内地の出来事や生活ぶり、それに現地ラバウルのニュースなど明るい楽しい話題の提供につとめた。

 

締め切りは午前一時、割り付けのあとガリ切り終了が同三時で、誤字誤植があればローソクのローを垂らして校正し同四時から印刷開始、刷り上がったところで軍郵便隊のトラックに積み込まれる。

 

トラックには上乗りの兵隊が対空監視を兼ねて山上の道路を走り、連絡地点ごとに立っている“新聞受領”の兵隊に一部ずつ手渡される。内地流に表現するならば本社を出発した発送トラックが、巡路の販売店ごとに新聞梱包を落としてゆくような情景であろう。

 

ところで、籠城部隊の鉄則は自給自足の現地自活にあるから、紙面に二、三行の余白が出ると「兵農一如」とか「戦耕一如」のスローガンを挟み込んでいた。軍事司令部の今村均大将の壕舎入り口に菜園を作って春菊を植えていたが、南海特有の灼熱の太陽とスコールのおかげで、春菊は異様に成長し胸の高さくらいまで育っていた。招かれてご馳走になったが、野菜というよりも材木みたいな味だった。

 

タピオカ、タロイモ類は寸断したクキを土中に差し込むだけで二、三ヶ月で玉をつけた。内地から最終便で届いた三俵のモミは、陸稲作りの第一号となり、三毛作も可能というので、「内地のコメが食べれる」と陣中新聞で扱ったところ全軍の話題となった。ドラム缶から作られた円匙、鉄道のレールを切って作り上げた鍬など、農耕器具も量産されて、各部隊を巡回する現地自活指導班は「赤ん坊以外何でも作ります」と、ジョークを飛ばすほど笑いも出はじめていた。

 

ラバウル新聞の終刊号一面トップは「御前会議、ポツダム宣言受諾を決定」だった。

 

なんのコメントも加えず、同盟の配信をそのまま掲載した。筆をはさむ余地はなかったからである。例によって三行ほどの余白が出たが、もう「兵農一如」でもあるまい。私はためらうことなく「臥薪嘗胆」の四文字を入れてサヨナラを告げた。

 

なお内地への最後の送稿は二十年七月、海面すれすれに飛んできたプロペラ四発の海軍大艇機に托した「闘魂の権化ラバウル」だった。この原稿は特派員社以外でも「報道班員発」とすれば扱えたので七月十日付の全国紙に掲載された。

 

(やまざき・えいすけ 当時読売新聞ラバウル特派員)

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