ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


戦後45年 の記事一覧に戻る

終戦45年目の従軍記者 あの旗に会いたい(山崎 英祐)1990年8月

終戦45年目の1990年8月、ジャワ、スマトラを旅行して、インドネシア独立戦争に身を投じた元日本兵たちを訪ねました。

 

約800人のうち500人近くが戦死または消息不明となり、現在ではわずか102人が生き残っています。彼らの中には日本とインドネシア間に国交のない時代を日本商社の通訳として働き、経済交流の先兵として貢献した者もいます。

 

いま平均70歳の彼らは、いずれも現地妻をめとり、国籍も取得して、成長した二世たちと平和な生活を営んでいました。残留日本兵の助け合い団体「ヤヤサン福祉友の会」では、この9月13日から11日間、二世の代表15人を日本見学に送り出します。平均37、8歳の二世たちは工場経営者、語学教師、輸入代理業などさまざまで、インドネシアでは2人目といわれる女性パイロット、ロカワティ・中川(29)も参加予定です。

 

ペルーのフジモリ大統領ほどの華やかさはありませんが、元日本兵にとっては“故郷に錦を飾る”気持ちなのです。会員諸兄のご理解をお願いしたいと思います。

 

帰途、シンガポールに立ち寄り、セントーサ島にある歴史記念館で、山下・パーシバル両将軍の「イエスか、ノーか」の場面を見て感無量でした。

 

クラブ会報先月号で、「シンガポールの“降伏の舘”蝋人形で戦史再現」という斎藤志郎会員の“とっておきの話”を読み、再現に奔走されたことに感謝します。

 

48年前、従軍記者だった私は、あの会見場で取材したからです。入り口に立てかけられた白旗はごわごわとしていて食堂のテーブルクロスかな、と直感したことを覚えています。なぜか鉛筆で白旗の片隅にぐるぐると丸いしるしをつけましたが、再現された会見場の白旗は、ひとまわり小さいものでした。あの旗はどこにいったのか、あの旗に会いたい、という気持ちで胸がいっぱいになりました。

 

タイ国境からシンガポールまで、1100キロの進軍は自転車が主力でした。私は“銀輪部隊”とネーミングして戦場から記事を送りましたが、この銀輪部隊という呼称だけは戦史に名をとどめてくれたようです。

 

かつての従軍記者は、かつての戦場を歩き、そして、かつての兵士たちともめぐりあうことができました。記者冥利につきる今年の夏でした。

 

(やまざき・えいすけ 元読売新聞記者)

 

*1990年8月号2-3ページ 「シンガポールの“降伏の舘”蝋人形で戦史再現」(斎藤志郎)

前へ 2019年10月 次へ
29
30
1
3
5
6
7
9
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
22
26
27
29
31
1
2
ページのTOPへ