ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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ミズーリ号取材 同盟最後の仕事だった(西山 武典)1995年8月

前号に「ミズーリ号での降伏文章調印(四五年九月二日)を取材したのはどこの社の誰だったのか」という問いかけがあった。代表取材をしたのは同盟通信で、加藤万寿男、明峰嘉夫両記者と宮谷長吉カメラマンの三人が派遣された。日本側からは他にもう一人、日本映画社から牧島貞一カメラマンが加わった(牧島も日映の前には同盟写真部員)。加藤はこの時のことを「聴きとりでつづる新聞史」(別冊新聞研究十四号)のなかで回想している。話を聴き出したのは当クラブの会員でもある内川芳美、春原昭彦の両氏である。

 

同盟は戦時中、国家代表通信社といわれマスコミのなかで別格の扱いだったから、代表取材で選ばれるのは当然であった。ニュース映画も政府の肝いりで作られ、同盟と関係の深いニュース専門の日映が代表となった。

 

取材班は前夜は焼け跡に残っていた横浜支局の机の上に蚊帳を吊って明かし、二日早朝、横浜港から米国の駆逐艦で外国報道陣にまじって、東京湾沖合いのミズーリ号に運ばれた。加藤によると、調印式はわずか二十分で終わった。占領軍司令官マッカーサーが自ら司会のマイクを握り、日本の自尊心を傷つけないよう、良いスピーチをやった、という。翌三日の全国の新聞(といってもたった二ページ)に載った同盟配信の記事は明峰が書いた。

 

同盟はこのあと九月十四日、占領軍から業務停止命令を受け(一日で解除)十月三十一日に解散に追い込まれる。降伏調印の報道は同盟にとっても最後の仕事であった。

 

加藤はワシントンで太平洋戦開戦まで日米交渉をカバーし、戦時中の後半は戦時調査室に勤務、同盟が政府の要路と宮中に限定配布したマル秘の「特別情報」に、敗戦を予期した「対日戦後処理案の輪郭」(四十四年十二月)というすぐれた分析も書いた知米派のジャーナリストである。のちに共同通信の常務理事。明峰は講和条約の調印式も取材し、のちに共同政治部長、当クラブの会員でもあった。宮谷は満州国通信社から同盟に移り、当時カメラマンとしては最古参の一人だった。戦後すぐに共同から北國新聞に移籍。同盟から日映にいった牧島は戦後も「同盟写真部同人会」の名簿に名を連ねている。

 

(共同通信OB)

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