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記者たちの夏1995年:村山談話発表 陰の立役者2人の存在(安達 宜正)2015年8月

戦後50年の内閣総理大臣談話・村山談話が出された1995年の暑い夏。駆け出し、政治部3年目の記者だった私は、いわゆる官房長官番だった。「植民地支配と侵略に対する、痛切な反省と心からのお詫び」というキーワード。閣議決定を行って、政府の公式見解に格上げした政治的なメッセージ。これには村山富市総理大臣の思いとともに、2人の官房長官の存在があったからこそだと思っている。

 

1人は五十嵐広三さん。37歳で北海道旭川市長に当選。若い時からサハリンの在留韓国人問題に取り組み、日本の負の遺産の解決をライフワークとしていた政治家だった。自民党などとの調整で「戦後50年の国会決議」があいまいな形で決着したときの五十嵐さんの言葉が忘れられない。「国会がダメなら、内閣でより踏み込む」。駆け出しの記者にも、その強い決意が伝わってきた。政府部内にもあった慎重意見を抑え、談話の原案にキーワードを盛り込むように指示したのは、五十嵐さんだった。   

 

もう1人は五十嵐さんを引き継いだ野坂浩賢さん。批判を受けながらも、自民党の連立政権を主導した野坂さん。後世に村山内閣、社会党首班内閣が残せるものは何かをいつも考えていたように思う。村山改造内閣には自民党でも保守派に属する閣僚も多く、異論が出る可能性も取り沙汰されていた。野坂さんは閣議決定にこだわった。「大丈夫ですか」という私の問いに、野坂さんは「反対なら、辞めてもらいます」。それから数日、野坂さんは私たちをけむに巻きながら、自民党幹部や閣僚をまわり、根回しを続けた。

 

村山談話は「植民地支配と侵略、反省とお詫び」という文言を盛り込み、そして、閣議決定・政府の公式見解という形で決着した。それが20年たった今でも、議論の焦点となっている。

 

政策論議を展開し、ワインを好んだ五十嵐さん。政局を読み、次の手を常に考えながらも、笑い話で記者を翻弄した野坂さん。今は亡き、味のある2人の政治家が村山談話の陰の立役者だった。

 

(NHK解説委員)

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