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一つの点、一本の線が生命を持てば(諏訪 正人)2009年1月

昨年夏、久しぶりにパリに行った。私にとってパリのたのしみはまず美術館と書店、それも小さい美術館と古本屋をまわることである。こんども用事の前後に多少の時間ができると、このひそかなたのしみを味わうためにいそいそと出かけた。

 

こぢんまりした美術館のいいのは、多くの場合、一人の芸術家か一つの主題でつくられていることだ。大型美術館のように大勢の芸術家の強烈な個性と個性が正面衝突して、はらはらすることはない。

 

大型美術館でも、お目当ての一人の画家の作品だけ観て、あとはいさぎよく目をつぶってさっさと出てしまえば別だが、なまじ禁欲的行動をすると、ストレスがたまってかえって疲れる。

 

その点、小さい美術館は会場も広くないし、観客も多くないから、気がねなく芸術家の世界にひたることができる。私のお気に入りは東洋美術専門の国立ギメ美術館である。

 

入り口でクメールの微笑をたたえた女神が迎えてくれる。いたずら娘のようなアブサラも首をかしげて手招きしてくれる。

 

こんどもギメ美術館に行こうとメトロを出ると、長蛇の列ができていた。美術館の正面に「Hokusai」と大書したのぼりが下がっている。二カ月ほど前に「北斎展」がはじまったと聞いたが、まだ続いているとみえる。

 

三十分ほど待って入口にたどりついた。クメールの微笑はあとまわしにして、まず「北斎展」をのぞくことにした。北斎はこれまで東京で随分見たから、一瞥するだけでいいと軽く考えて地下の特別展に入った。ほの暗い室内のパネルいっぱいに、北斎の言葉が投影されている。目を通して驚いた。

 

――私は六歳のとき、さまざまなオブジェのフォルムを描く癖があった。

 

五十歳ごろ、おびただしい数のデッサンを描いて発表した。しかし、七十歳以前の私の描いたものは、なにもかもすべて自分にとって不満足だった。

 

七十三歳になって、鳥や魚、植物などの真のフォルムや本性がなんとか理解できるようになった。

 

 

パネルに映し出される北斎の言葉はフランス語だ(私が逐語訳してみました)。北斎が現代の美術用語を使って自分の仕事を語っている。私は読みながら、葛飾北斎という江戸時代後期の浮世絵師というより、現代の芸術家の言葉を読んでいるような気がした。

 

この人は思い切りがいい。「七十歳までの仕事はすべて不満足」なんて、なかなか言えないせりふである。それまでにも評判になった作品は数々ある。それをきれいさっぱり否定したのだから、天晴れというほかはない。

 

七十歳までの自分を一切捨てて出直した。そのかいあって、七十三歳で自分にめぐりあった。北斎はそう言いたかったようだ。

 

――こうして、八十六歳になって、私は著しく進歩を遂げたようである。

 

九十歳で事物の核心に迫り、百歳で必ずやより高い、定義できない状態に達し、百十歳で一つの点、一本の線はもとより、すべてのものが生命を持つようになるだろう。

 

これは北斎の『富嶽百景』前編「あとがき」である。『富嶽三十六景』も『富嶽百景』も観た覚えがあるが、あとがきがあるとは恥ずかしながら知らなかった。

 

七十歳までの仕事は一人前ではない。つまり北斎は七十歳までは前期成人だと考えていた。七十三歳でやっと一人前になる。それを七十五歳で後期高齢者なんて、ちゃんちゃらおかしいと噴き出したことだろう。

 

北斎は八十歳を過ぎても、第一線に立ち、富士山を仰ぎ、描き続けた。天の高みをめざしてよじ登ろうとする執念と気迫。それがあるから九十歳で核心に迫ることが可能になったのだと思う。

 

「私は著しく進歩を遂げたようである」とひとごとのように言っているが、これはこの作家一流の照れ隠しで、堂々とした勝利宣言ではないか。いや、お見事。つくづく感服しました。北斎と呼び捨てにしては失礼にあたる。これからは北斎さんと呼ぼうと心に決めた。

 

 

北斎さんは一七六〇年、江戸本所に生まれた。『富嶽百景』前編が刊行されたのは一八三四年だから、北斎さんの言葉は数え年で七十五歳のときに書かれたことになる。七十五歳の芸術家が九十歳、百歳、百十歳の自分を見据えて書き残した稀有な文章である。

 

北斎さんにとって、年齢が大事なのではない。重要なのはその年齢になって何ができるかが、実現するために何をどうするかという段取り、仕事の目標である。北斎さんの芸術的、人生的マニフェストといってもいい。

 

私は展示された作品を観終えて、パネルの言葉をメモしようと引き返すと、年配のフランス人男性が手帳に言葉を写している。

 

先に写し終えた紳士は「これを読むと元気が出るね」と私に言って手帳をポケットにしまった。私もメモしながら「本当にそうですね」とうなずいた。

 

北斎さんの心意気は私にもひしひしと伝わる。そうだ、年齢の数字にこだわるのはやめて、天の高みを仰ぎみて足元で仕事をしとう。いまできないことも、九十歳を目ざして努力すれば、もしかするとほんのちょっとだけでも可能になるかもしれない。

 

あのフランス人ではないが、北斎さんに励まされて、私も豪気な気分になったのだから不思議だ。北斎さんの元気は伝染する。

 

 

東京に帰って『富嶽百景』を探し出した。前編跋文に例の言葉が載っている。「一つの点、一本の線」のくだりは、原文で「百有十歳にしては一点一格にして生きるがごとくならん」となっている。

 

一点一格生きるがごとくなった絵、それが北斎さんの理想の絵画とするなら、一点一画生きている文章を綴るのが新聞記者の理想ではないか。不可能ではないとしてもきわめて困難だ。しかし、一点でも一画でも、生気の抜けた、しおれた文章は書くまいという禁忌を守ることは私にもできる。

 

北斎さんは一生の間に九十三回転居し、号を三十数回変えた。なかには一、二カ月で引っ越したこともあった。度重なる改号と引っ越しの理由は何か、専門家にもわからないらしい。

 

いつも原稿に行き詰ってばかりいる私には、北斎さんの胸中がほんの少しわかるような気がする。北斎さんも仕事がうまくいかないときはある。あすになったらうまくいくさと自分に言い聞かせて、翌朝、目が覚めてもだめ。仕方がない、環境を変えそうとさっさと引っ越した。それでも効き目がなければ心機一転、号を変えたのではないか、というのが私の推理である。

 

北斎さんは一八四九年四月十八日、九十三回目の転居先である浅草聖天町遍照院境内の粗末な長屋で亡くなった。九十歳だった。臨終の床で、北斎さんは友人にこう言ったという。

 

「天我をして十年の命を長ふせしめば、(しばらく絶句したのち)天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」

 

すわ・まさと▼1930年生まれ 東京都出身 東京大学仏文学科卒 53年毎日新聞社入社 地方部 政治部 外信部 プノンペン ジュネーブ特派員 パリ支局長 東京本社学芸部長 論説委員 79年から02年まで朝刊一面コラム「余録」を担当 現在毎日新聞特別顧問

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