ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

犯罪被害者支援の基盤築く 元警察庁長官の国松孝次さん(傍示 文昭)2016年10月

警察官僚だった国松孝次さんに初めてお会いしたのは1984年5月だった。当時46歳の国松さんは大分県警本部長に着任した直後。私は西日本新聞社に入社したばかりの新人記者だった。

 

「サツ回り」として頻繁に本部長官舎に夜討ち朝駆けした。単身赴任だった国松さんと一緒に朝食をとるため、パンと牛乳を持参したこともある。未熟で鈍感だった当時の私に、捜査情報を聞き出せるはずもなかったが、酒をついでもらいながらの「人生訓」は貴重だった。忘れられない「訓示」は今もたくさんある。

 

ある夜、差し向かいの席で国松さんに、こう問われた。「君は鼻の下に立派な髭を生やしているが、覚悟を持って生やしているんだろうね」。意味が分からず、返答に困っていると国松さんは続けた。

 

「髭は顔の一部であり、僕は君を髭のある男として認識している。生やすのであれば生涯そらないつもりで生やしなさい。もし何年か後に君に会った時、髭がなければ君を認識できない可能性があるからね」

 

数多くの記者と接してきた国松さんにとって、私はその1人でしかない。覚えてもらうために私は覚悟を決めた。

 

10年後の1994年夏、国松さんが警察庁長官になった直後、私も東京報道部勤務になった。長官室で再会した国松さんは私の髭をしっかり覚えていて「よく来た」と歓迎してくれたが、髭の「訓示」は全く覚えていなかった。「そんな偉そうなこと言ったっけ?」。照れ笑いする国松さんと昔話で盛り上がった日が懐かしいが、まさか、その半年後に犯罪被害者として国松さんを取材することになろうとは思いもしなかった。

 

95年3月、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件捜査の陣頭指揮に当たっていた国松さんは自宅前で何者かに銃撃され、一時は危篤状態となる瀕死の重傷を負った。そして病床から復帰した後の96年2月、「被害者対策要綱」を策定。警察組織全体で本格的な被害者対策に乗り出した。置き去りにされてきた犯罪被害者を取り巻く環境が飛躍的に改善されることになる出発点だった。

 

本社に戻った私は98年1月、社会部の取材班キャップとして「犯罪被害者の人権を考える」というキャンペーンを開始。犯罪被害者であり、「要綱」の策定責任者でもある国松さんを頻繁に訪ねた。1年4カ月に及んだシリーズ記事は、国松さんの知見や体験なしにはあり得なかった。

 

国松さんにはシリーズごとにアドバイスをいただいたが、何度も読み返してきた一通の手紙が今も手元にある。座右の銘としてきた助言だ。

 

「犯罪被害者問題に関するシリーズ記事、いつも大変興味深く読ませていただいており、苦労の跡がしのばれる取材に感服しています。ただ、犯罪被害者の救済は息の長い対応を必要とします。目に見える成果が出て来るまでご努力をお願いします」

 

私は取材で親しくなった弁護士や精神科医とともに公益社団法人「福岡犯罪被害者支援センター」を立ち上げ、東京転勤となる今年7月までは副理事長として、現在は顧問として被害者支援に携わっている。かたや国松さんは79歳になった今も財団法人「犯罪被害救援基金」の理事を務めている。

 

覚悟を持って生やしてきた私の髭は今も鼻の下にある。これからも「訓示」を受ける関係でありたいと願っている。

 

(かたみ・ふみあき 西日本新聞社東京支社編集長)

前へ 2019年12月 次へ
1
7
8
12
13
14
15
16
17
18
19
21
22
23
25
26
27
28
29
30
31
1
2
3
4
ページのTOPへ