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特別企画 砂防会館あの日あの時 壁に刻まれた刀傷(後藤 謙次)2016年6月

今もあの日を思い出すと軽い興奮を覚える。1985年2月7日。早朝から東京・平河町の「砂防会館別館」前には時ならぬカメラの放列。この日の主役は竹下登蔵相(当時)だ。最大最強の派閥といわれた木曜クラブ(田中派)内に自らの政策集団「創政会」の旗揚げを決断、その発会式が3階の派閥事務所で行われることになっていた。派閥のオーナーの田中角栄元首相は、あいさつに訪れた竹下氏に厳しくクギを刺す。だが、その場の元首相のひと言が皮肉にも竹下氏の決意を揺るぎないものにした。

 

「俺がもう一度やってからにしろ」

 

田中氏は83年、ロッキード裁判で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を受け、控訴中の刑事被告人でもあった。84年10月の総裁選をめぐっては田中氏の側近だった自民党の二階堂進・元副総裁が党長老と公明、民社の両党幹部と意を通じて中曽根康弘首相の追い落としを企図した「二階堂擁立劇」に遭遇したばかり。しかも二階堂擁立劇を収拾した論功で、竹下氏の盟友・金丸信氏が自民党幹事長に就任したことも田中氏にとって大きな誤算だった。

 

危機感を抱いた田中氏は創政会結成を容認したものの、あくまでも派内の「政策勉強会」との位置付けにこだわった。このため田中氏の秘書・早坂茂三氏が調整役となり、砂防会館内の派閥事務所で発会式を行うことで折り合いを付けた。しかし、どんなに形式を取り繕ったところで派内クーデターであることに変わりはなかった。

 

創政会結成直前に東京・目白台の私邸で会った田中氏が昼間からオールドパーをあおっていた姿は今も忘れられない。この角栄氏の意向を反映して創政会参加メンバーへの切り崩しは血しぶきが飛ぶような激しさがあった。

 

そして迎えた発会式当日。竹下氏は東京・代沢の私邸からパトカーに先導されて砂防会館に到着した。注目は参加議員数の1点。創政会事務局長に就任した梶山静六氏は手帳に、こう記した。

 

「創政会発会式。出席者は四十名。衆院二十九名、参院十一名。安どした」

 

それからわずか20日後、田中氏は脳梗塞で倒れ、政治生命を失った。さらに派内の対立抗争は約2年にわたって続き、最終的に竹下派と二階堂グループに分裂する。双方とも派閥継承の正統性を担保するため派閥事務所の継続使用を主張した。

 

そこに割って入ったのが「じいさん」の愛称で親しまれた元自民党副総裁の西村英一氏。西村氏は初代田中派会長で砂防会館を運営する砂防協会長も田中氏から引き継いだ。田中氏にとって名実ともに精神的支柱であり、砂防会館のシンボル的存在だった。西村氏の裁断は「喧嘩両成敗」。竹下、二階堂のグループ双方から事務所の鍵を取り上げ、締め出したのだった。この時点で田中派の牙城ともいわれた砂防会館を舞台にした権力の攻防劇は幕を閉じた。

 

竹下氏が激しい権力闘争の末に首相の座に上り詰めたのはそれから間もない87年11月。さらに竹下氏から政権を引き継いだ宇野宗佑氏も砂防会館本館に事務所を構えていた。実に砂防会館が輩出した首相は4氏を数える。そして老朽化が進む本館の建て替えを決断したのも、かつて田中派に属した綿貫民輔・現砂防協会長(元衆院議長)だ。

 

「東日本大震災があり、窓も割れて建て替えもやむを得ない」

 

まさに「兵どもが夢の跡」。砂防会館の壁に刻まれた「刀傷」を知る政治家も政治記者も、年々減っていく。

 

(共同通信社客員論説委員)

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