取材ノート
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情報戦うら・おもて(パート5) 潜水艦の売り込みやTPP交渉のカギは?(村上 吉男)2016年5月
今年4月末、安倍晋三首相自ら陣頭に立って2年越しでオーストラリアに働きかけてきた同国の次期潜水艦建造計画への売り込み合戦で、日本は土壇場でフランスに敗れた。
原子力推進でない通常型潜水艦では、日本の海上自衛隊が配備している「そうりゅう」型潜水艦が静粛で探知されにくく、長時間の潜水が可能、航続距離も長いなど、現存する世界の通常型潜水艦の中で群を抜いていると評価され、当初から日本の「そうりゅう」型にほぼ決まりではないか、とさえ言われていた。
◆◇日本の最新鋭技術がなぜ?◆◇
オーストラリアの次期潜水艦計画が明るみに出たころ、同国のトニー・アボット首相は中道右派の自由党出身で親米派。南シナ海への進出を推し進める中国に対して警戒心を強めており、戦略面で考えを同じくする日本の安倍首相とウマが合い、以心伝心で、潜水艦は「そうりゅう」型になびいているとみられていた。とはいえ、これから長期計画で12隻の最新型潜水艦を新造する総事業費500億豪ドル(約4兆3000億円)にも達する巨額の兵器調達計画である。アボット首相としても国際的な競争入札を求める必要があり、ドイツとフランス、そして日本の3か国が応じたのである。
フランスはオーストラリアが求めているクラスの通常潜水艦は保有せず、5,000 トン級の
原子力潜水艦を4,000トンに改造した大型通常潜水艦をオーストラリア国内で建造する案で応札。一方、ドイツは原子力も大型潜水艦も保有していないが、新たにオーストラリアが求めているような通常型潜水艦を設計し、第二次大戦のUボート以来のドイツの優れた潜水艦建造技術を有すること、フランス同様に基礎からすべてオーストラリア国内で建造すること、4兆円相当の建造費の大半がオーストラリア国内に残ることなどを売りにした。
そうはいっても、日本の「そうりゅう」型が誇る静粛性、敵からの探索困難性、それでいてディーゼルと高性能のリチウムイオン電池による強力な推進力など、独仏両国より優れた技術をオーストラリアは望まないのか。最先端技術を次期潜水艦に取り入れないでよいのか。
ここがまさに、この数か月間、オーストラリアが最も悩んだ点ではなかったろうか。
◆◇根深い対中配慮◆◇
そもそも、オーストラリアが最新鋭の潜水艦隊を整備したいのは、中国が海軍大国化し、南シナ海の南沙、西沙諸島などで人工島の建設を進め広大な領海宣言を始めたことに備えるのが最大の目的なのである。そのために、米豪同盟を緊密化し、米国との軍事協力を安倍政権のもとで強化している日本とも必然的に防衛協力関係を密接にしたいとの方針がある。
しかし、一方で、オーストラリアは日本と相互安全保障条約を結ぶような同盟関係になることは望んでいないようだ。理由は、日本と同盟関係を結ぶことは、中国から敵視されることになるからである。鉄鉱石や石炭など一次産品の輸出国オーストラリアにとって中国は最大の輸出国であり、中国から敵視されないようにすることがオーストラリアの外交原則ともいえるからだ。中国の南シナ海進出を防ぐために日米と協力はするけれども、中国と軍事的に直接対決するような事態には参画したくない。その中国は、安倍政権になってから防衛力を強化し、尖閣諸島をめぐって鋭く対立する日本を軍事面では潜在敵視している。このような情勢の中で、日本製の最新鋭兵器で次世代の潜水艦隊を構築する選択肢は、オーストラリアにとっては、初めからあり得ない道であったといえるかもしれない。
それにしても、日本が世界に誇る最新技術はどうするのか。中国に気を使うあまり、4兆円も投資しながら、世界最高水準の兵器でなくてもよいのか。
◆◇傍受済み?潜水艦技術も◇◆
ここからが、現代の情報戦のすさまじさである。日本の優れた潜水艦技術について米国はすでにほぼ掌握していたはずである。当初、オーストラリアがアボット前政権時代に次期潜水艦隊の構築をめぐって日本と接触をしていた時点では、日本が長時間の潜水や静粛性の技術を全面開示するか否かが焦点の一つだったといわれる。ところが、オーストラリア政権内のゴタゴタから、同じ自由党内でアボット首相が信任投票で敗れ、親中国派のマルコム・ターンブル氏が首相に就任すると、最新技術面もさることながら、中国の重要性が大きなウエートを占めるようになった。ターンブル政権としては、フランスが新規に提供する潜水艦が、世界最高水準と言われる日本の「そうりゅう」型に勝るとも劣らないことを国民に示す必要がある。
そこで、同政権は自国が米国経由で蓄積してきた日本の「そうりゅう」型の最先端ディーゼル・リチウムイオン電池・エンジンの技術と、フランスが採用しようとしているジェット噴射推進方式とを十分に検討した結果、フランス案は静粛性、航行速度、航続距離などで最先端のものとなると言明したのである。今回の公開入札でオーストラリアが求めていたのは、次期潜水艦の船体であって、潜水艦の攻撃兵器などの武装装備については米社に発注する可能性が強いといわれる。
ところでオーストラリアはなぜ、中国が日本製の潜水艦購入には反発するが、同じ西側自由陣営のフランスやドイツからなら兵器購入を黙認すると読んでいるだろうか。答えは明白だ。中国は目下、東シナ海で日本と尖閣諸島の所有権をめぐって対立状態にあり、中国政府は安倍政権による自衛隊の強化に強い不信感と不満を抱いている。中国を最大の貿易相手国としているオーストラリアとしては、中国と領土問題で対立している日本から巨額の大型兵器を何年にもわたって購入し続けることは避けたいところだ。一方、仏独両国からは中国自身、兵器に転用可能な大型エンジンや航空機の関連装置などを購入しており、日中関係のような政治、外交上の問題もない。オーストラリアがフランスから巨額の兵器を購入しても、中国は単なる商取引として認めざるを得ないだろう。
いずれにしても、米国としては、これから南シナ海を舞台に日米豪の3か国が中心となって中国海軍に対抗していくわけで、オーストラリアの潜水艦隊が海上自衛隊のレベルより低いようでは困るのだ。米国は、これまで他のケースでも行ってきたように、「そうりゅう」型の建造時点ですでに、同型潜水艦の建造を受け持った三菱重工業と川崎重工業の2社の担当部門の末端から最上層に至るまで、重要な段階で有線および携帯(無線)電話、メールやパソコンの内容や図面など、あらゆる情報を傍受して詳細に「そうりゅう」型の技術を入手してきたに違いない。
◆◇明るみにされる米国の手口◆◇
そうしたやり方は、たとえば昨年7月、ウィキリークスが公開した米国家安全保障局(NSA)の2010-11年の対日盗聴リストや、それ以前に対日盗聴をもとに作成した文書を見れば明らかだろう。それによると、2010-11年には、日本の指導者、国際金融、経済の3部門に分けて、計35回線の電話番号が盗聴されたことが明らかにされている。それらの中には内閣府、経済産業省、財務省、日本銀行などの電話番号が記され、そのほか経済産業相ら個人の番号、三井、三菱グループ企業の電話番号が挙げられている。有線電話もしっかりと盗聴していたのだ。
これ以前にも、盗聴を通じて、ウィキリークスが公開した米NSA作成の文書では、安倍政権の温室効果ガス削減目標の米政府への伝達方法(2007年)や、世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉で当時の石破茂農水相がカーク米通商代表との会談で伝える発言要領の原案(2009年)などの詳細がそっくり盗聴され、米側によって文書の形にまとめられていたのだ。カーク代表は、石破農相が会談のテーブルについた時点ですでに、石破農相の発言内容をすべて知っていたのである。
潜水艦の技術では、電話回線の盗聴どころか、米NSAの全力を挙げて調べあげたとみるべきだ。有線回線だけでなく、携帯、メール、パソコン、コンピューターの図面など、縦横無尽に情報収集され、消音のため潜水艦内の細部に設置するゴム片に至るまで調べ済みだったろう。
上記の一部文書では、米政府が第二次大戦以来、機密文書を共有する英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの4か国に提供されることになっていたが、ここから、日本の潜水艦の技術がオーストラリアを含むこれら4か国に提供されている可能性も大いに考えられよう。
◆◇TPP交渉もターゲットに◆◇
さて、潜水艦騒動の直前に国会で騒動となっていたのは環太平洋経済連携協定(TPP)の批准に欠かせない協定の承認案と関連法案の国会での成立である。潜水艦と国際協定という、一見まったく関連性が無いように見えるが、TPP協定も潜水艦と同じように、外交的には中国、協定の内容的には米国の情報収集活動が深くかかわっている。
そもそも安倍政権がTPPの締結に熱心なのは、この協定が成立し、日米を中心とする環太平洋12か国の自由貿易地域が成立すれば、これは中国にとっては相当な打撃となり、日米を中心とする大きな経済・貿易圏が成立することになるからだ。中国は、日米が主導するこれまでの自由主義圏主体の経済体制を変えて、中国とアジア諸国が中心となるような貿易圏をつくりたいと考えている。
したがって、中国側からみれば、日本が米国と連携してTPP、すなわち環太平洋経済・貿易圏をつくろうとしていることは、オーストラリアの次期潜水艦戦力を日本の最新鋭潜水艦で固めようとする中国敵視的な行動と同じように映るのではないだろうか。
そのTPP協定を審議する衆議院特別委員会では、協定交渉の具体的な内容を求める野党側と、それを拒む自民・公明の与党側の対立が解けず、安倍内閣は今国会(2016年6月1日まで)での成立を断念せざるを得ない情勢である。野党側は安倍政権が米国にうまく立ち回られ、多くの譲歩をさせられたのではないかとみて、引き続き追及しようとしている。
◆◇巧妙な対日盗聴 情報戦で勝ち抜かねば◆◇
潜水艦問題と同じように、TPP交渉でも、米側は対日情報収集に全力を尽くしたに違いない。そのためには、TPPで自由化に向けて関税を引き下げ、撤廃していく農産物、工業製品から知的所有権の有効年限に至るまでありとあらゆる産品、製品の膨大な数の個別品目について、大掛かりで組織的な電話盗聴やパソコンのデータ収集が行われたであろう。先にあげたウィキリークスが暴露した米情報機関の対日盗聴のやり方がそれを示している。むろん、日本側も先刻承知で最高度の機密警戒態勢で臨んでいたに違いない。政府の盗聴対策については「要機密(の情報)を取り扱うものについては対策に万全を期しており、まったく漏洩していないと思う」(菅義偉官房長官)と自信のほどを示している。
しかし、現在ロシアに亡命している米中央情報局(CIA)の元職員のエドワード・スノーデン氏は、米国家安全保障局(NSA)を中心に米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの英語圏5か国で構成している通称「ファイブ・アイズ」の監視網から逃れることは不可能だ、と断言してはばからない(本シリーズのパート3参照)。
潜水艦から農産品に至るまで、思い通りの結果を得るためには、現代の熾烈な情報戦を勝ち抜くことが欠かせないのだ。
(元朝日新聞記者 2016年5月記)