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「政治記者になりなさいよ」 田中元首相の地元筆頭秘書 本間幸一さん(丸山 昌宏)2016年5月

田中角栄元首相の地元筆頭秘書として「国家老」の異名をとった本間幸一(本名・昴一)さんに、とうとうお礼を言うことができずに終わったことを今でも心残りに思っている。本間さんは5年前、88歳で亡くなってしまった。

 

私が本間さんと最初に会ったのは1981年4月、入社3年目で振り出しの新潟支局から長岡支局に異動した直後だった。

 

当時、田中元首相はロッキード事件第一審で被告人の立場にあり、「新潟3区」担当になったらまず後援会「越山会」にあいさつをと、事務所を兼ねていた越後交通本社秘書課を訪ねた。「国家老」という言葉から怖い人を想像していたが、まるで違った。穏やかで、痩せて首が長いため「鶴のような人だな」が、最初の印象だった。

 

当時は、朝起きると担当する7つの警察署に電話取材し、そのまま家を出て越後交通本社に顔出しするのが日課だった。長岡支局勤務の2年間、よく通った。本間さんは時間が許せば駆け出し記者の私にも気さくに会ってくれた。実際の本間さんは博識で、クラシックにも造詣が深く、秘書というより文化人といった方が似合った。

 

「オヤジが田舎で選挙に強いのは、最初に出たころ、長岡の旦那衆にはまったく相手にしてもらえなかったから。道もない所をそりに乗って、誰も行かない村落まで支持者を探して行くしかなかったんですよ」

 

「(冬に雪で道路が閉ざされる)孤立集落に1本ですが、オヤジがあちこち掛け合って電話を引いたんですよ。そうしたらその集落がいっぺんに田中支持になりましてね」

 

「バスで後援会の人たちを東京に連れて行くでしょう。最初のころは必ず国道1号線をただ走ってもらった。同じ日本なのに東京では冬でも車がばんばん走っている。新潟はどうですか。不公平じゃあないですか」

 

本間さんからはさまざまな話を聞いた。田中元首相が選挙に出た当初から行動を共にし、地元での選挙を取り仕切ってきた人だけに、経験に裏打ちされた話は実におもしろかった。

 

でもそうした会話の最後に本間さんから、よく「将来は政治記者になりなさいよ」と言われた。若気の至りで、そう言われるたびに「世の中を少しでも良くしたいと思って新聞記者になったんですから、やるなら社会部です」とつい反発してしまった。本間さんは「それならなおさら政治記者になればいいのに」といつも笑っていた。同じやりとりが何度も繰り返されたことを覚えている。

 

その後私は、希望通り社会部記者になったものの、3年もたたずに政治部異動を命じられ、結局、記者生活の大半を政治記者として過ごすことになった。しかも、政治部では田中元首相と袂を分かった竹下派担当となり、なんとなく「本間さんに会わせる顔がないな」と躊躇しているうちに本間さんは亡くなってしまった。

 

本間さんが若い記者みんなに政治記者を勧めていたのか、それとも私の適性をみて助言してくれたのか、今となっては不明だ。ただ、本間さんとの会話が私の政治記者の土台を作ってくれたことは間違いない。もう一度会って「生意気言いましたが、政治記者になりました」と言ったら、本間さんは何と言ってくれただろうか。

 

(まるやま・まさひろ 毎日新聞社常務取締役)

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