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ポジティブに捉える目 本田技研工業の創業者 本田宗一郎さん(岡田 実)2016年3月

私は北海道新聞に41年間在籍し、その半分近くを東京で過ごした。主に経済を担当したが、地方紙の記者が東京で働くことに意味と楽しさを見いだすきっかけを作ってくれたのが、本田技研工業の創業者・本田宗一郎さんである。数多く会った経済人の中でも、ひときわ強烈な印象を私に残してくれた。

 

東京に赴任して1年目の1985年3月、日本商工会議所が主催する訪中団に同行した。団長は東急グループ総帥だった五島昇・日商会頭。中国の最高実力者だった鄧小平氏が進める改革開放政策が始まってほぼ6年がたった時期で、全国の商工会議所や大手商社のトップなど100人余りが参加した。その中に本田技研工業の最高顧問で、東京商工会議所副会頭だった本田さんもいた。

 

私は当時、日商(東商)と兜町の記者クラブを任されていた。兜クラブには日本経済新聞の記者が53人も配置されているのに、当方は一人で2クラブ掛け持ち。自社の弱小ぶりに打ちひしがれている時だった。

 

ところが訪中団の同行記者は13社13人。一人でどこまで勝負できるかを試す良い機会が巡ってきた。中国語ができない私に何ができるか、と考えた末、団員の部屋を「夜回り」することにした。真っ先に頭に浮かんだのが、「経営の神様」として知られる本田さんだった。

 

部屋のドアをノックすると、本田さんが笑顔で迎えてくれた。話の途中、中国で働くホンダのスタッフがやってきた。当時、ホンダは重慶にあるオートバイ工場に技術供与していた。開放政策の実態を聞こうと本田さんが呼んだもので、私が退座しようとすると、「このまま一緒に聞いていろ」と言ってくれた。

 

この中で、開放政策が進むにつれ、沿海部と内陸との格差が拡大している、ニーズに合わない製品を大量に作り、野積みしているケースもある―など、さまざまな問題点を知ることができた。

 

訪中団は、鄧氏をはじめ中国政府要人と次々に会談し、上海近郊の宝山製鉄所、広州近郊の農村地帯、深?市内の三洋電機工場などを見学した。

 

この間、本田さんの部屋をたびたび訪れた。本田さんは「会社は本田家のものではない。世襲はダメだ」「若い社員と話をすることが大好きだ。彼らはわれわれが気づかない発想や知恵を出してくれる」と、楽しそうに語ってくれた。

 

団員と記者団が懇談した際、改革開放への懸念や対中投資慎重論が相次いだ。だが、本田さんは「最初に中国を訪れてから10年以上たつが、近代化が急速に進んでいることに驚いている。効率の悪いものを惜しげもなく捨て、効率的なものをどんどん吸収していく姿に期待したい」と、大声で言った。

 

問題点を十分に知りながら、それでもポジティブに物事を見る。町工場を大会社に育て上げた優れた経営者としての本田さんの一面を垣間見る思いがした。

 

私は「夜回り」のおかげで、中国要人の話や見学したことを立体的に見ることができ、記者として自信を持てた。担当が変わり、91年に本田さんが亡くなるまでお会いできなかったが、訪中後もずうずうしくお邪魔していれば、私欲がなく底抜けに明るい本田さんからもっともっと学べたのに―と悔やんでいる。

 

(おかだ・みのる 前北海道新聞社専務)

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