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「真実は執拗なり」の人 反原発の弁護士 藤田一良さん(山崎 一夫)2016年2月

少壮44歳にして白髪、大人の趣の弁護士「いちりょうさん」と初めて会ったのは松山市の裁判所近くのホテル。記者生活3カ月目からのつきあいは、私が大阪の検察特捜部担当や司法キャップの時に濃く、2013年の夏に亡くなるまで40年に及んだ。

 

3・11の福島第一原発の事故の後、「反原発」は小出裕章氏が知られる。彼が大学院を出たての原子力工学研究者として参加したのが1973年8月、愛媛県の伊方原発の周辺住民35人が田中角栄総理大臣(当時)を相手に国の原発設置許可の取り消しを求めて訴えた「伊方原発訴訟」。藤田一良さんは、その住民側弁護団長だった。

 

日本で初めての原発行政訴訟を担う高ぶりはみじんもなく「カネにならんビンボーガミ裁判やで」と笑う一方で、新聞のコラムで「貧乏弁護士」と書かれた時は怒った。熱く語る時も実は冷静、皮肉は大好きだが、冷笑家では決してなかった。農民組合指導者の父譲りの反権力意識に加え、司法研修所時代、口達者な弁護士の卵をまとめ「フジタ組」と呼ばれた組織人でもあった。

 

「引き受けた限りはマジメに法廷で戦う」というこの人に率いられた裁判に、国側はナメた対応だったと私は思う、いわば「たかが田舎での裁判」みたいな。弁護団を「反原発」を宣伝したいだけのアジテーター集団と見誤り「原発の安全性を国民に宣伝する場」と受けて立ったのが思惑違いだった。

 

平常時の被曝から、原発事故の可能性まで、50人に増えた弁護団が原子力分野の専門家を揃え、法廷は国側の専門家との間で公開安全審査の様相を帯び、国側の守勢は弁論を経るごとに明らかになった。裁判所からは安全審査資料の提出命令まで出されてしまった。

 

審理のほとんど全てを担当した裁判長を結審間際に転勤させ、新裁判長のもとでの78年4月の判決は原告側全面敗訴。これは原発の安全性の勝利ではなく「司法行政の勝利」ともいえた。

 

メディアがニュースで取り上げる裁判も多く手がけた。人権派弁護士と呼ばれるのは拒まなかったが、本人は「やりたかったテーマにぶち当たっただけ」と聞いた。32歳で喀血、療養のため会社を辞め、生きている間に成し遂げたい「何か」を求める意識もあっただろう。

 

新興俳句の鬼才、西東三鬼の裁判を持ち込んだ俳人の鈴木六林男さんや、在日の詩人、金時鐘さん、さまざまなジャンルの音楽家との交遊もあったから、私もよく飲み、藤田さん主宰のコンサートでもよく遊んだ。ある時、「あいつ(鈴木さん)は僕を〝俳句を知らん弁護士〟と言うんや、けしからん奴や」と笑いながら言った事がある。にわか勉強ではなく、文化への造詣への自負は強かった。事務所にも自宅にも、専門の法律書よりも文化、芸術の本が圧倒的に多かった。

 

「されど真実は執拗なり」とは84年の高松高裁の敗訴から言い始め、最高裁での敗訴(92年)以降も言い続けてきた。真実は、その時には認められなくても、時間をかけてジワジワと効いてくる、というような意味ですね、と聞くと「ま、ま、そんなもんや」と笑って答えるだけだったが。

 

原発情勢は、福島第一事故のあと複数の元首相が「即停止」を主張するまでに変わってきた。だが、いちりょうさんは多くを語らなかった。既にやれることはやった、という意識だったかもしれない。

 

(やまさき・かずお 毎日新聞グループホールディングス常勤顧問) 

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