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情報戦うら・おもて(パート4) 進化するスパイ技術 どこまで行く米国の情報戦略(村上 吉男)2016年1月

2次大戦中、米国の同盟国として対日戦に挑んでいたオーストラリア国内で多数のソ連(当時)のスパイが活動していたことは、前回のパート3で触れた。中でも、当時のエヴァット・オーストラリア外相の個人秘書官、アラン・ダルジールがソ連のスパイだったと戦後に判明した時のオーストラリア政府の驚きはいかばかりだったろうか。太平洋を舞台に日本軍と死闘を繰り広げていた米軍の機密情報が米同盟国オーストラリアの最高指導部からソ連側に筒抜けになっていただけでなく、その重要な米軍情報をソ連は、こともあろうに日本側に流していたのである。

 

日本ではどうだったのか。やはり、ソ連のスパイは当時、すでに日本の各方面に食い込み、モスクワに情報を流していた。19339月、ドイツの新聞記者に身分を隠して来日したソ連軍参謀本部情報部(GRU)部員のリヒャルト・ゾルゲが多数の日本人や外国人を組織して日本の政治、軍事情報を逐一ソ連に伝えていたソ連の一大スパイ網「ゾルゲ事件」のことは広く知られている。このスパイ網は日本側に察知されるところとなり、開戦直前の194110月から翌年にかけて合わせて35人が逮捕された。裁判の結果、ゾルゲは終戦前年の194411月、巣鴨拘置所で処刑された。

 

◆◇ソ連スパイが在米大使館の報道官?!◇◆

 

ゾルゲ・グループと緊密な連絡をとっていたのが当時の在日ソ連大使館員、ビクトル・ザイツェフだった。日本には外交官として赴任してきたが、実際はソ連軍参謀本部情報部の陸軍大佐であった。ザイツェフ大佐はゾルゲ・グループとの連絡担当として、同グループの無線技士らと東京の劇場などで隣り合わせの座席につき、情報や金銭のやりとりをしているところを尾行していた日本の官憲に確認されていた。しかし、外交官の身分で、外交特権を有していたため、逮捕の対象にはされなかった。

 

そのザイツェフ大佐は、ゾルゲ・グループが日本側に摘発され始めると、翌1943年早々にオーストラリアに転勤となり、今度はオーストラリアでスパイ活動を続けることになる。東京と同じように、オーストラリアでも陽気で活動的な外交官として動き回り、当然のように外務省を頻繁に訪れ、エヴァット外相の秘書官室にも出入りしていた。当時、オーストラリア側は、外相の秘書官がソ連スパイだとは露知らず、ザイツェフ大佐が外交官に身を隠したスパイだとは思ってもいなかった。

 

2次大戦後にオーストラリア政府が明らかにした同国情報部(ASIO19491229日付の報告書に「ザイツェフがダルジール(外相秘書官)の部屋に居る時、極秘の軍事情報を見せられていた」と記されているという。同大佐は戦後の1947年にいったん帰国したが、その後間もなくして、今度は米国に派遣された。

ワシントンに現れたザイツェフ大佐はなんと、在米「ソ連大使館報道官」の肩書だった。ソ連軍参謀本部情報部の大佐という隠れた肩書を持つれっきとしたスパイが、こともあろうに、メディアに身を晒すポストで着任したのである。この時点で、オーストラリアはまだ「ザイツェフはスパイ」との情報を持ち合わせていなかったため、米国にそれを知らせることはできなかった。しかし、米連邦捜査局(FBI)がこの新任外交官の素性を洗い、着任後の行動を徹底的にマークしただろうことは間違いない。オーストラリアが気づいたのは1949年になってからだったが、米側がいつ気づいたかはわからない。

 

◆◇FBIの尾行気にしながらソ連高官に会う◇◆

 

それから四半世紀たった1975年。ザイツェフ報道官時代などとっくに終わっていたこの年の秋、筆者は朝日新聞の特派員としてワシントンに着任した。前任地のバンコクでもそうであったように、国際報道の記者にとって任地の各国大使館と接触し、取材することは仕事の一環である。冷戦時代の真っただ中にあって、西側諸国の大使館は押しなべて友好的だったが、ソ連や東欧諸国の大使館が自国の国営放送、国営通信の域を出るような情報を出すことはほとんどなかった。

 

70年代後半の米ソ間で最大の対立点は、核兵器の運搬手段の制限だった。運搬手段には、①大陸間弾道ミサイル(ICBM)、②戦略爆撃機、そして③弾道ミサイル潜水艦(SLBM)があるが、この数量をそれぞれ、どう制限するかにあった。これが、米ソ第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)と呼ばれていた。それに先立ち、72年には第1次戦略兵器制限条約(SALT1)が調印されたが、主として米ソ両国の核ミサイル数の上限を定めたに過ぎなかった。ところが、核戦争で重要なのは、核ミサイルの運搬手段であることが認識されるに至り、第2次交渉が始まったのである。

 

米側は例によって、毎週のようにブリーフィングや記者会見を開いて、米国の立場を国際的に広め、それによって対ソ交渉を有利に進めようとしていた。一方、ソ連側は公式にはほとんど説明しない。米側の発表だけで記事を書くわけにはいかない。ソ連側がどのように考えているのか、またどのような交渉戦術をとろうとしているのかを探るため、ソ連大使館の担当官から取材する必要があった。

 

冷戦の真っただ中のことである。筆者のことを調べる時間も必要だったのかもしれない。1か月も経ってようやく会う約束ができ、ワシントン市内の路上で正確な時間を決めて会うことになった。お互い、米FBIが尾行してくるだろうことは認識済みだった。相手は、大使館の高官だった。

 

歩きながら話し始めた。盗聴されるのを防ぐには、当時では、屋外がベストだったからだと思われる。筆者としては、報道のための取材に過ぎず、盗聴されても何ら差し障りはないのだが、先方には盗聴を避けたい理由があったと思われる。お互い、自己紹介して、名刺を交換し、彼が予約してあった小さなレストランで、彼は角の壁を背にした椅子に腰かけた。

 

こちらが米ソ戦略兵器制限交渉のソ連側の方針を聞きたいと取材の趣旨を説明したところ、

相手は、「分かった。詳しく説明するが、その前にひとつ聞きたいことがある」と言って、日本の北方領土に関することを聞いてきた。当時ソ連では何らかの理由で、日本が北方領土問題を国連の場に持ち出すことを警戒していたように思われる。その後、こちらからは日本の新聞に出ている対ソ政策などを説明する程度で、米ソ戦略兵器制限交渉をめぐるソ連側の方針を詳しく聞き出し、米側の方針と合わせて少しは深みのある記事が書けたのではないかと思っている。

 

◆◇「シギント」「エリント」-膨大な量の電子情報の時代へ-◇◆

 

ところで、彼とは一か月に12回会って取材していたが、会ったあとは必ず、ホワイトハウスに寄り、記者室で30分ぐらい過ごすことにしていた。FBIに尾行されたていたのは確実なので、帰途に必ずホワイトハウスに立ち寄ることによって、筆者がソ連の協力者ではなく、むしろ米側の協力者であるかもしれないとFBIに思わせることを期待してのことであった。特派員としてホワイトハウスに自由に出入りできる記者証をもっていたのはありがたかった。

 

4年半のワシントン勤務を終えるにあたって、FBIが筆者に関してどのようなファイル(情報や特記事項)を保有しているか、米国の情報自由化法を活用してファイルの開示を請求したところ、住所、氏名、職業、所属、著作などのほか、黒い線で何行か消してある文章があった。

 

それが、米国にとっての敵性国との接触に関連したものなのか、当時ロッキード事件の取材絡みで自宅電話が盗聴されたかもしれないことに関する黒線なのか、知ることはほぼ不可能であろう。ただ、帰国して数年後の1985年、2度目のワシントン勤務の際に、報道ビザがなんの問題もなく発給されたことは、おそらく悪い黒線ではなかったのではないかと、これは筆者の独りよがりである。

 

以上、見てきたように、国際間の情報収集にはスパイと呼ばれる情報部員による「人的情報収集活動」、英語でいう Human Intelligence が有史以来現代に至る最も有効な情報収集手段のひとつとされている。この方法は、英語の略称からヒューミント (Humint) と呼ばれているが、このヒューミントは、通信連絡や電話を傍受して情報を取る「交信情報収集活動」 (Communications Intelligence)、略称コミント (Comint) と併用されるようになって飛躍的な効果をもたらすようになった。

 

米、英、オーストラリア3国が第2次世界大戦半ばの1943年から始めた「ヴェノナ」計画はまさに、ヒューミントとコミントを巧みにミックスしたスパイ網だったといえよう。ヒューミントで収集した情報に基づいて、コミントでソ連の暗号電報、通信、会話を傍受し、ヒューミントでそれを解読、分析して貴重な情報を得る。当時としては最先端の方式だった。

 

スパイ技術はその後、とてつもなく発達し、発展した。とりわけ、「信号情報の収集活動」(Signals Intelligence) では、一般に通信連絡に用いられる信号、通信、電磁波などを媒介として膨大な量の情報収集を行うことが可能となったのである。英語の略称からシギント (Sigint) と呼ばれるこの方法では、たとえば国内、あるいは国家間を飛び交う何億、何十億通というEメールの一通ごとの発信地、発信時刻、受信地などの基礎データをすべて、まるで真空掃除機で吸い込むかのように膨大な量の情報を収集できる。先にあげたコミントも、技術的にはシギントに含まれるといってよい。また、この方法によって、外国が発信する通信目的以外の電磁波、たとえばレーダー電波などを傍受して軍事情報を得ることも可能だ。さらに、ある国の電磁技術のレベルを探知するために「電子情報の収集活動」(Electronic Intelligence), 略して、エリント(Elint)も行われる時代に入っているのである。

 

◆◇友好国の意図も知りたがるアメリカ◇◆

 

米国家安全保障局(NSA)のシギントによるすさまじい盗聴ぶりは、ドイツや日本など米国と同盟関係にある国々の首相でさえ例外ではなかったことからもうかがえよう。各国の政府機関や企業の秘密文書を独自に入手し、暴露する独立系ウェブサイト「ウィキリークス」によって明るみにされたところによると、ドイツのメルケル首相は201310月に彼女の携帯電話が米NSAによって長年にわたって盗聴されていたことが判明。メルケル首相自身が直ちにオバマ米大統領に抗議した。米側は、情報収集システムを見直すという発言にとどまり、盗聴が意図的なものでなかったことを示そうとしたが、ドイツ側がその釈明を信じる可能性はゼロであった。実際、2015年になっても、米中央情報局(CIA)がドイツ政府情報機関やドイツ国防省の職員などからそれぞれ秘密資料を入手していたことが発覚し、ドイツ側が在独米大使館のCIAチーフの国外退去を求めるなど、米独関係は情報活動に関するかぎり、冷え込んだ状態が続いている。

 

日本についても、亡命したスノーデン氏が日本の国連代表部の多くの電話がNSAによって早くから盗聴されている、また同盟諸国の首脳の電話も盗聴の対象となっているなどと明らかにしてきた。そこへ20158月になって、内部告発サイト「ウィキリークス」が2007年の安倍首相の訪米に関する文書などを米側が事前に入手していたこと、さらに2010年~11年には内閣府や経済産業省、日銀、さらに大手企業など35か所の電話回線をNSAが盗聴していたことなどを暴露した。

 

ことここに至って、安倍首相はバイデン米副大統領に電話し、「同盟国の信頼関係をゆるがしかねないもので、深刻な懸念を表明せざるを得ない」と抗議。バイデン副大統領は「ご迷惑をかけていることは大変申し訳ない」と陳謝した。しかし、具体的に「ウィキリークス」が暴露した35回線の電話が盗聴されていたのか否かなどについては、明らかにされていない。

 

フランスに対しては、2006年以来、シラク元、サルコジ前、オランド現大統領と3代にわたって歴代大統領の携帯電話が米政府機関によって盗聴され続けてきた。EUの大国であり、米国も加盟する軍事同盟・北大西洋条約機構 (NATO)の加盟国であるフランスに対して、最高首脳部の思惑を常に把握しておきたかった米側の意図を強く反映したものといえよう。             

 

潜在敵国性のある中国やロシアならともかく、友好国で軍事同盟まで結んでいる日、独、仏3か国政府首脳の携帯電話を盗聴してまでもこれら首脳の考えを常に明確につかんでおきたいとする米国の強い意図がうかがえよう。

 

 

(元朝日新聞記者 20161月記)

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