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思い起こす「45年前の課題」被爆者医療の肥田舜太郎医師(川本 一之)2016年1月

被爆70年の昨年夏、書店の原爆コーナーで手にした本に「広島の宇品港から被爆者100人を船で山口県の柳井に運んで治療を始めた」という文章が目にとまった。この時ほど活字が大きく見えた経験はあまりない。

 

『広島の消えた日―被爆軍医の証言』(影書房)『被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに』(新日本出版)の2冊。いずれも「著者 肥田舜太郎」。

 

読み進むにしたがって、「全容を世に出さないと」と駆け出し時代の記憶が湧き出してきた。

 

それは1971年。被爆26年目の夏。山口県内の病院から被爆軍人のカルテが相次いで見つかった。

 

その1つ、柳井市の国立柳井療養所。国立公園瀬戸内海に面した元弾薬庫の中から、広島陸軍病院、広島赤十字病院などに収容された被爆者のカルテが次々に。負傷の状態、容態、治療内容が克明に記録されていた。その1行、1行に身震いしながら取材。この年の原爆報道の柱の1つになった。

 

当時の記事の見出し―「貴重な軍人被爆者カルテ発見」「はっきり原爆症」「さらに千百人分発見」。そして治療に奔走した医師たちの報告書の一部も―「怒りと苦悩軍医の証言」「血液調べ放射能知る」「悲惨な患者、薬品は欠乏」。

 

だが、「どうして広島から遠く離れた所にカルテが…。そこで何が…」との疑問も、転勤を重ねる間に頭から消え去っていた。

 

本の中の経歴を手掛かりに筆者の肥田医師を探す。「埼玉県内の介護施設にご夫婦でおられる」。居ても立ってもおられず、お訪ねした。「忘れてきたテーマ」を思い起こしていただいたお礼と被爆直後の経緯を詳しく取材するために。

 

施設のロビーに現れた肥田医師はしっかりした足取りで、とても99歳には見えない。

 

「爆心地近くにあった広島第一陸軍病院の分院を郊外の戸坂村につくる作業に追われていた。爆心から離れていたので、自分は助かったけど、被爆の直後から裸同然の全身やけどを負った負傷者が町中から逃げてくる。考えるゆとりもなく、治療を始めた。負傷者がどんどん集まって、村は一時3万人にも…」。被爆者医療の始まりだった。肥田医師はその後、戦後一貫して被爆者医療に関わることとなる。

 

柳井に移ったのはなぜか。「病院の機能を回復させるには建物が必要。都市部はみな米軍の空襲で、病院に使える建物はない」。柳井の船舶工兵部隊は空襲を受けず、兵舎が残っていた。広島から約60㌔。広島第一陸軍病院の移転先に決まり、藁布団などを持ち込み、急ごしらえの病院に。「医師は30人余り。手探りの治療でね」

 

肥田医師に励まされ、柳井へ。44年ぶりの療養所は「国立病院機構柳井医療センター」に表札が変わっていた。

 

当時のカルテは―。住元了院長が「先人がよく残したと思う」。病棟そばの「病歴保管庫」にあった。平屋のコンクリート造りの棚で、広島陸軍病院、大野陸軍病院などと書かれたカルテに再会した。赤茶けてはいるが、当時の医師が書き残した被爆者の病状は読み取れる。

 

「保存しなければならないと思うのですが」と住元院長は思案顔で説明した。

 

「原爆」が遠い過去の出来事に追いやられかねない今日、このカルテは重い意味を持って「どう保存し、役立てるか」を私に問いかけている気がする。肥田医師から託された課題と受け止め、「忘れてきたテーマ」の罪滅ぼしの旅が始まる。

 

(かわもと・かずゆき 中国新聞社特別顧問)

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