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何が「つらい」と言わせたのか 最後の琉球政府主席・屋良朝苗さん(軽部 謙介)2015年11月

曇り空だった記憶がある。傘を差すほどではないにしても、雨粒がぱらぱらと落ちていたかもしれない。1986年3月。屋良朝苗さんと初めてお目にかかった日のことだ。

 

引退して10年。屋良さんはこの時すでに83歳になっていたが、トレードマークの丸メガネをかけ背筋をぴんと伸ばして沖縄県庁中庭のイスに腰掛けていた。

 

「最後の琉球政府主席」「本土復帰の立役者」「初代沖縄県知事」。さまざまな肩書や形容が付与される屋良さんがこの日来賓として招かれたのは、取り壊しが決まっていた「県庁第一庁舎」のお別れ式だった。

 

ガジュマルに囲まれ小学校の校舎のようなたたずまいだったこの建物は、53年に米軍が建設。琉球政府の本庁舎として、72年の復帰後は沖縄県庁の「第一庁舎」として使われた。現在の巨大な県庁はその跡地に建つ。

 

式典終了後、那覇支局に勤務していた私は屋良さんに「どんなご感想ですか」と聞いた。スクラップ帳に貼られた自分の記事に答えが残っている。

 

「復帰前後の時期なのでいろいろなことがありました。感慨深いと言えます」

 

そしてこう言葉を継いだ。

 

「昔を思い出すとつらいこともあります」

 

 

屋良さんが琉球政府の主席を務めていたのは、本土復帰への動きが本格化したころだ。毒ガス移送、コザ暴動事件、円ドル交換など次々に難題が吹き出し小さな島は揺れに揺れた。しかも「沖縄の帝王」と呼ばれた米軍高等弁務官が君臨していただけに、主席としての苦労は並大抵ではなかったに違いない。

 

まじめで誠実だった屋良さんは「激しくやると歯が折れる」として「鈍角の態勢」をモットーにしていた。しかし、時にそれは「優柔不断」「日和見」と揶揄され、信頼する部下の離反にも遭遇する。日本政府との距離をめぐって「革新陣営」の支持者たちから厳しく批判された。

 

復帰の中身も屋良さんたちが求めたものとは程遠い内容だった。密度や機能において「本土並み」の返還だったはずなのに、嘉手納基地や普天間基地も含め大半の米軍施設がそのまま残ることになったのである。今に続く復帰後の基地問題はここから始まった。

 

沖縄県公文書館で公開されている屋良さんの日記を読むと、「余りにも荷は重し」「にない切れない課題を背負っている」などと本音が吐露されている。自身を「時代の人柱(ひとばしら)」などと表現した箇所もあった。眉間にしわを寄せる屋良さんが内心何を考えていたのかよく分かる。

 

 

「お別れ式」で初めて言葉を交わしたのを機会に、それから一、二度、那覇市内のお宅を訪ねて話を伺った。復帰のころまだ高校生だった若い記者を相手にしても、きちんとした居住まいを崩さず、一言、一言丁寧に語ってくれたのが印象に残っている。

 

現役時代を全く知らない私に、この人を語る資格はないかもしれない。しかし、沖縄の苦悩が拡大再生産されている現状を考えたとき、原点となる時代を生きた屋良さんの軌跡をたどることは重要だと思う。

 

旧琉球政府庁舎を見上げたとき、何が「つらい」と言わせたのか―。

 

もう一度考えてみたい。

 

(かるべ・けんすけ 時事通信社解説委員長)

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