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「アトムへの思い」尋ねたい 漫画家の手塚治虫さん(丸山 貢一)2015年10月

名前を聞けば「あの人か」と納得していただける。そんな人物を継続取材した覚えがない。バトンを渡され考え込んだが、一度きりのインタビューでも「あの人に会えて良かった」と思う方ならいいかと勝手に解釈し、原稿を書き始めた。

 

漫画家の手塚治虫さんである。

 

1982年7月、北アルプスを間近に望む長野県白馬村。漫画家の親睦団体や大手旅行会社、村観光連盟が「マンガ王国」を建国した。「笑いとユーモアあふれる独立国」と銘打ったファンとの交流イベントだ。手塚さんは厚生大臣に任命され来村していた。

 

信濃毎日新聞は毎夏、信州を訪れた著名人にインタビューする「山ろく清談」を続けている。そこに登場願うことになった。

 

筆者も子どものころ鉄腕アトムに熱中した。ほんの一時期だが、漫画家を夢見たこともある。その身からすれば手塚さんは神様だ。約1時間のインタビューの最中、ずっと上気していたように思う。

 

手塚さんは質問に丁寧に答えてくれた。鉄腕アトムについては、こう語った。「当時の日本は戦後の混乱期。今とは違い科学は全てバラ色だったから、なんとか科学の力で最低の生活から立ち直りたいという願いをアトムに託した」

 

鉄腕アトムの連載は1952年、昭和27年に始まった。

 

その3年後には原子力発電が国家事業としてスタートする。時代は高度経済成長へと向かって突き進んでいく。 

 

アトムは胸を開くと小さな原子炉があった。アトムは「原子」の意味。妹の名前はウランだった。

 

当時、原子力は「平和利用」が強調され、21世紀への夢の象徴だった。アトムも時代の空気を映し出していたのだろう。

 

だがインタビュー当時、アトムに対する手塚さんの思いはもっと複雑だったのではないか、と今になって考えている。

 

21世紀に入った年、共同通信の 「日本人の自画像」が手塚さんを取り上げた。

 

アトムは当初、「アトム大使」という名前で登場する。東西冷戦が激化し、核戦争も現実味を帯びていた。第1作は地球人と宇宙人の対立の仲裁役を果たす。手塚さんの創作の原点は悲惨な戦争体験だ。平和への願いが読み取れる。

 

その後、アトムはテレビでもアニメが放映された。だが原作どおりのストーリーは1年半ほどで終わり、あとはスタッフが筋書きを書いた。敵は怪物になり勧善懲悪の物語になっていった。手塚さんはそんなアトムに強い違和感を抱き、葛藤する。そして「アトムは自分の息子じゃない」「アトムは駄作だ」という発言を繰り返すようになった。「機械文明は人間を幸せにするという誤解だけは解きたい」とも語っていたという。

 

この記事を読んだ時、自分のインタビューの底の浅さを痛感した。

 

手塚さんは「原子力の平和利用」にも既に懐疑的な視線を向けていたのではないか。

 

「ブラックジャック」「アドルフに告ぐ」…。後期の作品は天使と悪魔の二面性や人間の負の側面を描いている。

 

1989年、手塚さんは60歳で亡くなった。かなわぬこととは知りつつ、アトムへの思いをもう一度尋ねてみたい。

 

そしてフクシマ後の世界をどう描くか、想像してみる。

 

(まるやま・こういち 信濃毎日新聞論説主幹)

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