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国際テロ今昔(友田 錫)2015年5月

それは文字どおり晴天の霹靂だった。私がパリに着任して引越し荷物をほどく間もない1974913日、日本赤軍がオランダはハーグのフランス大使館を襲撃し、大使館員らを人質にとった、と報じる外電の至急報が飛び込んできた。それからの一週間というもの、日本からハーグの現場に飛んできた本社社会部記者への側面支援やパリでの情報取りで、文字どおりてんてこ舞いの日々が続いた。

 

政治や宗教の争いに発するテロは、有史以来、洋の東西を問わず存在した。だがアメリカのテロ研究家、クレア・スターリングによると、国境をまたいで、しかも組織的に行われるテロ活動、いわゆる「国際テロ」なるものが登場したのは、19687月が最初だという。このとき、パレスチナ・ゲリラの極左の分派、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)がローマ発エルアル航空機をハイジャックした。以後、アメリカの国務省は「国際テロ」という名目でこの種のテロの発生統計をとり始めたらしい。またスターリングは、こうした国際テロが猖獗(しょうけつ)をきわめた1970年代を「恐怖の10年」と名付けた。筆者がパリに在勤した1974年-1978年の4年間は、まさにその最盛期にあたっていた。

 

衝撃的だった二人の犠牲

 

この期間、多くの国際テロ事件が起きたが、なかでも二つの事件が、強烈な印象とともに記憶に残っている。

 

ひとつは19779月、西ドイツ(当時)の極左過激派「バーダーマインホフ・グループ」(別名ドイツ赤軍)が、日本の経団連にあたる経営者連盟兼産業連盟の会長だったハンス=マルティン・シュライヤーをケルンで誘拐し、拘束されている仲間の釈放を求めた事件。西ドイツ当局がこの要求に応じなかったため、一ヵ月半後、シュライヤーはベルギーのミュールーズで射殺体となって発見された。

 

もうひとつ。19783月、イタリアの極左過激派「赤い旅団」が前首相のアルド・モロをローマで誘拐し、公判中の仲間の釈放を要求した。モロは当時の最大与党、キリスト教民主党の総裁もつとめたことのあるイタリア政界の大物。次期大統領選の最有力候補と目されていた。政府が犯行グループの要求を拒否したため、結局2ヵ月後に、ミラノの路上に置き捨てられた自動車のトランクの中で、その遺体が発見された。

 

いずれも、政府が「犯人の要求には断固として応じない」という方針を貫いた結果だった。19779月には、日本赤軍がダッカ空港で日本航空の旅客機をハイジャックする事件が起きていた。犯人らは拘留中の仲間ら9人の釈放と600万ドルの身代金を要求、結局当時の福田赳夫首相が『人命は地球より重い」として犯人側の要求に応じた。これに対して、西ドイツやフランスの新聞が「日本は軟弱だ」との批判をあびせたのを覚えている。

 

この時期、世界を震撼させた「国際テロ」の代表的な組織は、パレスチナの左翼過激グループや西ドイツ、イタリア、日本の極左過激派、それに北アイルランドの民族主義過激派(アイルランド共和軍=IRA)だった。イラン、キューバ、リビア、北朝鮮などの国家が支援する組織を加える研究者もいる。

 

東西冷戦の影

 

これらの極左過激派が活発に国際テロを展開した目的は何だったのだろうか。先のクレア・スターリングによると、その答はイタリアの「赤い旅団」が1978年に採択した次のような「戦略目標に関する決議」からうかがい知ることができる。「西側民主主義国の鎖の輪の中で最も弱い輪はイタリア、最も強い輪は西独だ次の段階としてヨーロッパ大陸全体にまたがる『共産主義戦闘機構』を結成し、西側多国籍帝国主義の重要ないくつかの中心部を攻撃する。最終段階では、帝国主義の頂点に位置するアメリカへの総攻撃を行う」

 

その後、旧ソ連がこれらの国際テロ組織の多くを支援していたことがわかってきた。19757月、パリのフィガロ紙など複数の新聞がフランスの秘密警察、国土監視局(DST)から得た情報として報じたところによると、当時のソ連やその東欧衛星諸国がさまざまな国際テロ組織にゲリラ訓練基地を提供し、武器の供給にも携わっていた、というのだ。

 

これらの分析によると、旧ソ連は長い間、海外の極左の過激派組織をトロツキストのはね返り分子とみなして敵視していた。だが、1968年から、こうした極左過激派や第三世界の民族主義過激派などを「西側資本主義世界を脆弱化するために役立つ」とみなす戦略に転換するようになったらしい。その結果、1973年には東ドイツがPLO(パレスチナ解放戦線)とゲリラの訓練、武器供給の協定を結び、ブルガリア、ユーゴスラビアもパレスチナ・ゲリラに基地を提供することになった。さらに、ポーランド、東ドイツなどから直接、シリア、レバノンのパレスチナゲリラに海路で武器が送られた。旧ソ連自体も、モスクワの近郊にゲリラ訓練基地を持っていたという。

 

これと関連して、ル・モンド紙がフランスをふくめた「一部の国」の警察情報として報じたところでは、旧ソ連の支援とは別個に、日本赤軍、バーダー・マインホフ・グループ、トルコの過激派組織が武器、爆弾の調達、にせパスポートや地図の調達、隠れ家の提供などで横の連携関係をつくり上げていたようだ。しかし、外部からの支援として質、量ともに最も重要だったのは旧ソ連圏からのものだった。

 

 

こうしてみると、1970年代から1980年代初頭にかけて燃え盛っていた国際テロには、東西冷戦の影がさしていたといっても間違いなさそうだ。

 

だが、1980年代後半になると、「恐怖の10年」に荒れ狂っていた国際テロの活動が、潮の退くように急速に下火になった。この時期、とりわけ1985年には、旧ソ連にゴルバチョフ政権が登場して西側への開放路線を目指す「ペレストロイカ」(改革・再構築)を打ち出している。ゴルバチョフ以前の旧ソ連指導部が「西側資本主義体制の脆弱化」を狙って国際テロを支援していたとすれば、西側との関係改善を望んだゴルバチョフ政権になって、旧ソ連は国際テロ支援の戦略を放棄したのだ。この方向転換こそが、国際テロ沈静化の最大の背景だったのだろう。

 

政治テロから宗教テロへ

 

さて、「国際テロの今」に眼を向けよう。

 

1970年-80年代の国際テロの背景をなしていたのは、政治の世界の過激主義だった。ところが、2001911日の同時多発テロ以降、つまり「今」の国際テロの特徴をなしているのは、宗教の世界における過激主義だ。その代表的な例が、アルカイダをはじめ、その傍流の「イスラム国」などもろもろのイスラム過激主義のグループである。これらグループがいずれも自爆をそのテロの実行手段に採り入れていること、また「イスラム国」などが誇示する徹底した残虐性は、20世紀後半の政治的過激派による国際テロとはまったく趣を異にしている。

 

イスラム過激主義から派生したテロ・グループは、かつての政治的過激主義の国際テロのように、国際情勢の何らかの変化によっていつかその勢いを減じ、いずれ消滅していくのだろうか。あるいは、イスラム世界の一部に残るユダヤ=キリスト教世界への歴史的な敵意やイスラム世界特有の根深い宗派対立を栄養源にして、時に応じて規模と形を変えながら、そのエネルギーを失うことがないのだろうか。筆者には即答はない。

 

ひとつだけ、わずかな可能性を指摘しておこう。それはイスラム世界の自浄力である。イスラム教徒の圧倒的な多数は、もともと平和で穏健な教えを奉じる人びとだ。数からすればほんの一握りの過激派グループのテロ活動が、世界の人口70億人(2011年現在推計)のうち16億人を占めるイスラム教徒のイメージを害い、そこに生きる人びとの平和で仕合わせな営みに打撃を与えている。

 

イスラム過激派による国際テロに立ち向うことは国際社会全体の責務だが、その困難な事業にいささかなりとも効果的に取り組むことができるのは、イスラム世界の人びとではないか。テロ撲滅の具体的な動きがいつ、どのような形ではじまるのか、眼をこらして見ていきたい。

 

 

産経新聞記者2015516日記

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