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速報が生命線の通信社時代 北京でスクープを取り逃がした話(伊藤 正)2015年5月

エドガー・スノーの自伝的作品『目ざめへの旅』(松岡洋子訳、筑摩書房)に、北京駐在のフリーランサーだった1933年、AP通信の特派員になる誘いを受けたエピソードが出てくる。当時、スノーは契約していたフィーチャーニュース配信会社が解散して失職中で、貯金も乏しくなり、妻(ニム・ウェールズ)から、好待遇のAPへの就職を促されていた。

 

スノーは気乗りしなかった。以前APでバイトした経験から、通信社とは「あらゆる事を扱い、しかも競争相手より1分でも早くなければならず、1日24時間電話に縛り付けられる」と知っており、自分には向かないと思っていた。

 

悩んだ末、負けたらAPに就職すると妻に約束して、週末の競馬に有り金全てを賭けた。結果は当分生活に困らないほど大勝ちし、APの誘いを断った。『中国の赤い星』を刊行、世界を驚かせたのは、その4年後である。

 

◆〝毛沢東死去〟をしくじる

 

このエピソードから80年余、インターネットに象徴される通信革命によって、報道の現場環境は一変した。メディアの多機能化が進み、全国紙はデジタルサイトを開設、通信社と情報の量と速度を競うようになった。デジタルサイトには、締め切りも行数制限もない。いわば新聞社の通信社化であり、寸刻を競う速報の重要性は増している。

 

私は速報が生命線の通信社に在籍した35年間に、重大ニュースの速報で2度の失敗経験があり、通信社記者として失格だったと自認している。恥を忍んで失敗経験を書く。

 

最初の失敗は、1976年9月9日の毛沢東死去の速報だった。これについては拙著『鄧小平秘録』(産経新聞出版、文春文庫)にいきさつを書いたが、ポイントは日本時間午後5時の発表の数分前に死去の確証を得ながら、当時の電話事情などから速報できなかったことだ。

 

その悔しい思いを大学の先輩で、当時朝日新聞北京支局長だった田所竹彦氏(故人)に打ち明けたところ、彼は発表の1時間も前に情報を聞いていたとし、「教えてやればよかったね」と話した。彼には、この歴史的大ニュースを翌日の朝刊まで報道する手段がなかった。

 

田所氏は1982年11月10日のソ連・ブレジネフ書記長死去のときも似た経験をしている。

 

共同通信北京支局員の塚越敏彦氏が「北京の東側消息筋」の話として送稿した、ブレジネフが10日夜死去し、11日午後5時(日本時間)に発表される―という全文70字ほどの短文だった。公式発表の39分前の速報を各外電がキャリーし、国際的なスクープとして、翌年の新聞協会賞を受けた。

 

田所氏は後に塚越記者より早く情報を入手していたことを朝日新聞のコラムで明かしている。田所氏は毛沢東に続いてブレジネフの死去もスクープできた可能性があった。もし通信社記者だったらの話だが。

 

◆〝方励之出国〟の電話だった

 

私がやり損なったもう1つの重大ニュースは、反体制物理学者の方励之教授夫妻の出国だった。方氏は「中国のサハロフ」と呼ばれた、民主化運動の象徴的リーダーで、学生運動に多大な影響を与えた。

 

夫妻は、天安門事件直後の1989年6月5日、高校生の長男を伴い北京の米国大使館に逃れ、保護を求めた。中国側は、夫妻を指名手配し、米大使館を武装兵が包囲、夫妻は館内に閉じ込められた。米政府は、大統領特使を2度派遣するなど交渉を重ねたが、1年たっても解決せず、深刻な国際問題になっていた。

 

そんな中で1990年6月25日朝9時ごろ、自宅アパートの電話が鳴った。予約していた取材に急ぐ必要から電話を取らなかった。それが失敗の始まりだった。後に分かったことだが、電話の主は党中央編訳局幹部の郭承敏氏(故人)だった。郭氏は、10回以上かけ続けたという。

 

正午前にオフィスに行くと、名前も用件も告げず、私の所在を尋ねる電話が何度もあったと知った。郭氏から電話があり、いつもの場所で落ち合ったのはその日午後2時すぎだった。会うなり衝撃的な話を始めた。「党中央は方励之の第3国(英国)への出国を認める決定をしたと、今朝、職場で内部通達があった」

 

内部通達とは、共産党組織内で特定の幹部を対象に中央の決定を伝える通知のことだ。内容に疑う余地はなく、直ちに速報すべきだったが、私は逡巡した。郭氏がこう話したからだ。「伊藤さんに、この情報をすぐ知らせようと思い、職場外の公衆電話でかけたが、つかまらなかった。しばらくして、せめて日本人記者に報道させようと思い直し、面識のあったA、B両紙の記者に伝えた」

 

頭が真っ白になった。両紙の夕刊の大見出しを想像し動揺した。2紙の報道後では、速報の価値はなくなる。しかし、両紙夕刊に方氏出国の記事はなぜか出なかった。

 

意外な事態に戸惑っているうち、新華社が午後4時(日本時間5時)に速報、スクープを逃した。これも大きなミスだった。新華社発表より1時間半も早く、郭氏から情報を得ていたからだ。新華社の速報を見たロサンゼルス・タイムズ記者が打電した記事は全米で唯一、朝刊最終版に突っ込まれた。16時間の時差が同紙に味方した結果だった。

 

私の苦い経験は共同社内の新入社員研修で披露し、記者教育の一助にした。私の失敗は、パソコンも携帯電話もない当時の通信事情もあったが、より本質的には通信社の速報マインドを欠いた結果だったと思っている。

 

◆通信社化する新聞でいいのか

 

前項で書いた郭承敏氏とは、天安門事件の前からの付き合いで、産経新聞に再就職した後も毎月のように会い、意見を交換する関係だった。

 

2006年10月1日の早朝、郭氏から自宅に電話があり、至急会いたいと言った。その日は中国で最も重要な公式休日の国慶節当日だったので、何事かと尋ねると、郭氏は「安倍首相の訪中が決まったので、彼の人物像など何でも教えてくれ」と話した。

 

この前月、1期目の首相に就いた安倍晋三氏の訪中については、訪中するのかどうかさえ定かではなかった。私は「提供できる知識がない」と正直に言い、「首相の訪中日程は決まったのか」と聞いた。郭氏は「10月8日と聞いている」と即答した。私は政治部デスクに情報を伝えたが、反応は鈍かった。安倍首相に強いと評判の記者は、情報を完全否定、私の記事は保留になった。

 

同日午後7時すぎに共同通信、9時すぎに時事通信がともに北京発で「安倍訪中」を伝えたが、産経はじめ2日付朝刊で報じた在京紙はなかった。後に判明したところでは「8日訪中」は日本側の提案で、1日の段階では調整中だったが、中国側は日本案をのむ決定をしていた。

 

産経に入社した15年前、通信社と新聞社の違いに驚くことがあった。

 

当時はまだ、ウェブサービスは本格化しておらず、記者の速報意識も低かったし、編集局は降版時間を作業の基準にしていた。

 

新聞には一覧性など優れた面はあるが、情報の量と速さではウェブサイトに及ばない。例えば産経がしばしばサイトに掲載している、注目事件の公判や話題の人物の記者会見の同時進行型報道は新聞には不可能だ。

 

新聞社の通信社化は時の流れとはいえ新聞にはネットにない魅力と機能がある。コラムや企画物だけでなく大きな出来事を追跡し真相に迫る報道こそ新聞にふさわしい。

 

私は速報で失敗した方励之出国の背景を追い、天安門事件で中断していた日本の対中ODA再開が、中国側が米側に提起した最重要条件だったことを関係者の証言で突き止め記事にした。中国はそれを西側による経済制裁解除の突破口にし、驚異的な経済成長の軌道を取り戻した。出国から17年後の記事である。

 

方励之氏は英国を経て米国に事実上亡命し、アリゾナ大学教授を務めた。2012年、76歳で病死した。

 

いとう・ただし
1940年生まれ 65年共同通信入社 香港 北京 ワシントン特派員を経て 87~91年北京支局長 編集局次長 論説委員長などを歴任 2000年産経新聞へ移り中国総局長兼論説委員を務める 2012年退社 主な著書は『鄧小平秘録』『鄧小平と中国近代化』『チャイナ・ウォッチング』『チャイナ・レビュー』『中国の失われた世代』など 2009年度日本記者クラブ賞受賞

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