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「神戸っ子」の土井たか子さん 病床からも憂えた憲法改正(小西 博美)2015年4月

土井さんが最後の衆院選を終えた2005年、兵庫県西宮市の家を訪ねた。2部屋ほどの質素なアパート。「慣れてないから、おいしくないかもしれないわよ」と入れてくれたお茶は温かく、いい香りがした。飲みながら話したのはやはり憲法のこと。軍隊放棄を掲げるコスタリカの話だった。「小さな国なのにすごいのよ。見習わないといけません」。一市民となっても、変わらぬ熱意を感じた。

 

生涯、頑固に平和と護憲を貫いた土井さん。原点は神戸での少女時代にある。第2次大戦中、父は軍医として召集。生家は焼夷弾の直撃を受けながら、家族は奇跡的に助かった。この時の体験が「二度と戦争をしてはだめ」という決意として心に刻まれた。

 

衆院議長だった土井さんと初めて会ったのは19年前の春。当時の国会は住専問題で揺れていた。挨拶のために時間を取ってくれたのだが、国会の話に水を向けると、「挨拶だけじゃなかったの」と顔色が変わった。あわよくば土井さんの言葉を記事に、と考えていた私のもくろみは打ち砕かれた。思えば国会空転が続く中、議長として相当なプレッシャーだったのだろう。その後、半年も口を開いてくれず、苦い思い出となった。

 

神戸っ子の土井さんは、若い頃はとてもおしゃれだったという。地元に帰ると、神戸・三宮と元町の洋品店や洋食屋に立ち寄った。何度か食事もご一緒したが、大柄な土井さんは見事な食べっぷり。そしてよく、食事量の違いから男女差があった生活保護費の話になり「私は男性より食べると言って、男女同じにしたのよ」と豪快に笑った。

 

女性初の社会党委員長に、衆院議長―。華やかさとほろ苦さが同居した政治家人生で、私が担当したのは〝崖っぷち〟の部分だった。議長を辞めて引退し研究者として生きる道もあったのに、あえて火中のクリを拾い、衰退に向かう社民党の党首を引き受けた。何という逃げ足の遅さ。それを真剣に支える人がいない不幸。かつては自信にあふれ、記者にも厳しかった土井さんが、次第に優しくなっていくのが寂しかった。

 

弱音はめったに吐かない人だった。一度だけ「(元首相の)村山さんは子や孫がいるからいいけれど、私の老後はどうなるのか。議員宿舎の壁を見つめると、不安になる」と漏らした。晩年は古里で姉や弟家族に囲まれ、穏やかに暮らせたのではないかと思う。

 

「元気だった私を覚えていて」と、亡くなるまでの数年は誰にも会わなかった。それでも12年、自民党が改憲案を発表した時には「何か発言した方がいいかしら」と病床から憂えた。昨夏の集団的自衛権行使容認の閣議決定や、その先に見える憲法改正の動きを最期まで案じていたに違いない。

 

最後に話をしたのは4年前の春。土井さんの好物、イカナゴのくぎ煮を届けようと電話をかけた。「私はね今、入院中なんですよ」。張りのある懐かしい声だった。

 

近親者で営まれた葬儀で、姉の和賀子さんは、妹への最後の贈り物を奮発した。祭壇には、おたかさんの大好きなカサブランカやランの花があふれんばかりに飾られた。長年秘書として連れ添った五島昌子さんは「こんなにきれいなら、もっと人を呼べばよかった」と悔しがった。

 

潔すぎる退場だった。

 

(こにし・ひろみ 神戸新聞東京支社編集委員)

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