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初対面で見せた涙の意味は… 原発ご意見番を務めた森一久さん(江種 則貴)2015年3月

あの涙は忘れられない。とりわけ「3・11」後は、事あるごとに思い出す。

 

森一久さんに初めて会ったのは21年前の春だった。当時、日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の専務理事。広島駅すぐそばのホテルのロビーでインタビューした。

 

その1カ月後、原産は広島市内で年次大会を計画していた。「核兵器廃絶」をテーマに掲げるとはいえ、原発を推進するためにヒロシマを利用するのでは―。ぶしつけな疑問に答えてもらった。

 

「原子力の平和利用に携わる者は、広島の悲劇を忘れてはならない」「人類が平和利用による利益を受けようとするとき、核兵器の存在は矛盾でしかない」。そのころ出会った電力関係者の誰もが原発の安全性ばかりを強調していただけに、軍事利用の絶対否定を説く森さんの言葉は新鮮に響いた。

 

理詰めの口調はしかし、自らの被爆体験に話が及ぶと、にわかに一転した。目尻をぬらし、あたり構わず嗚咽をもらす。

 

森さんは原爆投下の3日前、両親を気遣って京都から古里に戻った。8月6日未明、配給のわずかな砂糖を菓子代わりにした抹茶のひとときが永遠の別れとなった。

 

父は遺骨となって見つかり、母は今も行方が分からない。きのこ雲の下にいた家族のうち、炎をかいくぐり逃げ惑った森さんだけが3カ月の寝たきりを経て、まさに奇跡的に一命を取り留めた。

 

その体験を他人の前ではほとんど話してこなかったという。涙腺の最も奥まったところに半世紀近くため込んできたものが、一気にあふれ出した。そういっても大げさではないほどの慟哭だった。

 

多くの被爆者と同様、「自分だけが生かされた」意味について常に思い悩み、考え抜いた人生だったようだ。森さんにとって、それは「原発関係者にヒロシマの心を植え込む」ことだった。言い換えれば、科学が間違いなく人類のために使われるのかどうか、常に目を光らせることを自らの人生の使命に課したのであろう。

 

涙が引くと、森さんはこう語っている。「核拡散防止条約(NPT)の無期限・無条件延長を日本(政府)が支持するのは納得できない。大国の核兵器保有を認めていて、決して核兵器禁止条約ではないからだ」

 

今でこそ核兵器禁止条約の必要性を口にする被爆者や平和運動家は少なくない。ただ当時は被爆50年の前年であり、広島でもそこまで盛り上がってはいなかった。NPTの評価は、今も分かれる。

 

原子力関係者に対しても常に厳しく接してきた森さんのスタンスは、多くの報道関係者が知るところだろう。東海村臨界事故の後には弊社のインタビューに、こう答えている。「われわれの頭に『安全神話』なんてものは最初から存在しない。原子力関係者で、そんな言葉を信じて仕事をしてきた人はいないはずだ」

 

森さんは原産の副会長を務め、「3・11」前年に84歳で亡くなった。今も存命であれば恐らく福島の事故を、そして核のない世界が程遠く、テロリストの手に核弾頭が渡りかねない国際情勢を、心底苦々しく思ったに違いない。

 

会うたびに森さんは目尻を潤ませた。そして拭った後はとびきりの笑顔で、まなざしを遠くに向けた。

 

(えぐさ・のりたか 中国新聞執行役員編集局長)

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