ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

ニクソンからフォードへ――手探りの経済秩序(松尾 好治)2015年1月

世界史に重要なページの数々を刻んだ1970年代。米中両国の関係修復への急展開、それに続く金・ドル交換停止のニクソン・ショックと国際通貨の激動、電撃的な日中国交正常化、ウォーターゲート事件によるニクソン米大統領の任期半ばでの辞任、世界経済にボディーブローを与えた石油危機、初の先進国首脳会議(ランブイエ・サミット)の開催、中国の改革・開放への大転換―と次から次へと生まれた超大型のニュースが世界を驚かせた。私はたいへんラッキーなことに、その多くの刺激的な現場に居合わせた。私にとってワシントン駐在はその一コマで、貴重な体験に恵まれた大きな舞台の一つであった。

 

世界経済はニクソン・ショック(1971年8月15日)という大地殻変動を契機に激変した。多角的通貨調整によるスミソニアン合意でいったん新たな固定平価制度(セントラル・レート制度)をスタートさせたのだが、ドルの信認は回復せず、一年余で崩壊し、1973年3月にはすべての国が変動相場制に移行、通貨無秩序時代に突入した。この通貨が激動している最中の3月3日、私はワシントンに赴任し、三年余(76年4月24日まで)にわたり米国から国際通貨制度再構築への挑戦、米国経済の動きをフォローすることになった。到着直後宿泊したワシントン・ホテルの部屋の窓から、雨のそぼ降る中、財務省に面したペンシルベニア・アベニューを行き交う車を眺めつつ、未知の領域に挑む一種高揚した感懐に捉えられていた。スピードを増す経済の変化を追いかける激闘の始まりである。

 

世界を覆う成長の鈍化をはじめ、不均衡の拡大、インフレの高進という暗雲が深く垂れこめて、一向に晴れそうにない。しかも世界中にばらまかれた何ら価値を保証されない巨額のドルが、ウの目タカの目よろしく少しでも利益を得ようと猛烈な勢いで地球上を飛び回る。こうした環境の下で1972年7月からIMF20カ国委員会を舞台に国際通貨制度改革についての検討は続けられていたが、どこに着地点を求めるのか、展望は全く不透明なままである。文字通り暗中模索だ。ドルの威信は低下したとはいえ米国が世界経済の中枢の位置にあることには変わりはない。特にこの1973年3月以降、通貨関係会議の多くがワシントンで開かれるようになった。

 

変動相場制に移行はしたのだが、これで完全に変動相場制時代に入ったという認識はなかった。それはあくまでも一時的な緊急避難と各国とも考えていたのである。通貨制度改革の望みは捨ててはいない。3月末ワシントンでの20カ国委蔵相会議に出席した愛知蔵相は「調整可能な平価制度があるべき通貨制度の理念であり、いつまでも変動相場制を続けるのは好ましくないというのが日本の立場だ」と明言したし、日本政府代表団からは主要通貨の変動の期間は「短くて一年、長ければ五年」という観測が流れていた。

 

為替相場に絡む問題は経済の中では最もデリケートな部類に属すだろう。それだけに各国の通貨当局責任者が腹蔵なく意見を交換する内輪の会合が持たれることがよくある。実はこの3月25日、シュルツ米財務長官がホワイトハウスの図書室でフランス、ドイツ、英国の蔵相を招き、秘密会合を開いた。“ライブラリー・グループ”が発足したのだ。いわば“通貨マフィア”の親分の集まりである。これはもちろん相当後になってからやっと分かったことで、当時ワシントンにいたメディアはだれ一人知りようもなかった。このグループにはこの年11月から通貨外交で重要な役割を果たし始めた日本が加わり、G5となる。

 

振り返ってみると、このような非常に限られた少数グループの発足は、世界経済の激変を象徴していた。つまり通貨制度が混乱状態に陥り、インフレが加速し、世界経済が揺らいでいるにもかかわらず、米国はかつての圧倒的な経済力を背景とするリーダーシップを喪失しているため、困難を克服するには集団指導体制に移行せざるを得なかったのだ。世界経済に重大な責任を担う主要国から成るこの体制は、お互いの信頼と理解を深め、国際間の難しい複雑な問題の決定をスムーズにする狙いがあった。だが、現実はそのようなきれい事では済まされない。この後の通貨論議の経過をたどると、実際には関係国の間の溝の深さを際立たせるケースが往々にしてあったと言うことができる。スーパーパワー不在による混迷と漂流である。とどのつまり、事あるごとに、「協調の精神」を謳いあげる何ともあいまいな妥協しかない。

 

◆◇通貨改革の混迷とニクソン政権の黒い霧◇◆

 

国際通貨制度改革については1972年秋に米国が包括的な提案をしていた。その最大の特徴は、国際収支の調整のため客観的指標を制度として導入し、外貨準備や基礎収支の黒字がこの制度に照らして不相応に増加したり減少したりしている国に為替相場などの調整を義務付けるものだ。黒字国であるのに調整をしたがらない国、できない国は外貨準備を金やSDR(IMFの特別引き出し権)に交換する権利を失うという“罰則”も盛り込んでいた。米国はブレトンウッズ体制下では一般的に黒字国が調整圧力を免れる傾向があるうえ、米国以外の国が平価調整をしない限り米国がドルの価値を変更するのが困難な点に強い不満を抱いていたのだ。73年4月初めには20カ国委蔵相代理会議の国際収支調整過程ワーキンググループが客観的指標問題の技術的な検討に入った。この問題では最初から国家間の利害が激しく衝突し、5月末に開かれた20カ国委蔵相代理会議でも客観的指標として外貨準備を採用する場合、外貨準備の内容をどう規定するのか、ドルの交換性回復との関連をどうするかなどを巡って主要国の対立が先鋭化しただけだった。この時点で、米国、ECともに通貨制度改革に対する熱意が非常に薄れてきたという印象を私は受けている。

 

客観的指標によって調整を義務付ける米国案に欧州側は「きちんとした資産決済制度からかけ離れている」、「自動的な通貨調整が頻発することになり、平価制度の安定性を損なう」などとして猛反対であり、日本も通貨価値をどうするかは国家主権に関わる問題であるとして「自動的なメカニズムの導入により通貨調整をすることには反対」の立場を貫いた。この73年7月の20カ国委蔵相代理会議、同じく蔵相会議の議論を通じて客観的指標の採用はほぼ否定された形になり、国際通貨制度改革論議の行方は非常に暗くなってきた。欧州や日本にしてみれば、米国は国際収支が赤字でも自国通貨のドルでファイナンスできるので節度なくドルのたれ流しを続けていて、しかも他国は米国に対し国際収支赤字の調整を強制できないと、かねてから厳しく米国を非難しており、特に欧州の意見では新たな通貨制度はドルの完全な交換性を柱とするきっちりした厳格な制度でなければならないのだ。だがプラグマティズムに拠って立つ米国の目からは、それは現実離れした、旧来の流れから一歩も抜け出せない保守的、古典的な考え方と映る。

 

米国が提案した包括的な通貨制度改革案は、実は当時のポール・ボルカー財務次官(後に連邦準備制度理事会議長)が練り上げたものだった。ボルカー氏は回顧録の中で客観的指標アプローチについて「以前ケインズがブレトンウッズに至る前段階で出した改正案に極めて類似している」(行天豊雄氏との共著「富の興亡」より)と述べている。1944年、IMFと世界銀行の設立を定めたブレトンウッズ協定の調印を前にして、戦後の国際通貨体制を巡り20世紀最も名声を博した英国の経済学者J・M・ケインズと米国の財務長官補佐官のH・D・ホワイトが激論を交わし、ケインズ案とホワイト案が鋭く対立したことは、よく知られている。ケインズ案では国際清算同盟を設立、清算同盟から加盟国への当座貸し越しの形での信用創造を認めることとし、各国の平価変更については具体的な条件を数値で示し、債権国にも義務を負わせていた。例えば、清算同盟に対する債権が一年以上平均して割当額の二分の一を超える国は平価切り上げなどを要請されるーといった具合である。これは自動的な通貨調整メカニズムと言ってよく、確かに客観的指標アプローチによく似ている。だが当時黒字国であった米国の受け入れるところにはならなかった。

 

ブレトンウッズ協定の調印から30年もたって情勢は一変したのである。現実を踏まえると、欧州側からドルの交換性回復を強く迫られれば、客観的指標はどうしても譲れない、それがどうしても駄目というなら、弾力性のある変動相場制を容認するしかないーというのが米国の立場なのだ。客観的指標が厚い壁になって通貨改革論議は次第に膠着状態になっていった。こうした状態では国際的にもストレスがたまる一方だ。73年6月末にワシントンで日米財界人会議が開かれたのを機会に、私は米国側代表のガースタッカー・ダウケミカル会長にインタビューした。品格、識見共に優れた包容力のある経済人として知られるガースタッカー氏は「国際通貨危機は何としても避けなければならない。通貨制度に一層の弾力性が必要だと思う。20カ国委員会が検討を続けているが、原則的な問題についてすら合意が得られず、近い将来合意に達するかどうか確信を持てない」と、通貨論議の混迷にうんざりといったところで、「強調したいのは現在の制度が悪いわけではないということだ」と変動相場制を容認する姿勢を示した。米国の政府、経済界のコンセンサスは、ほぼできあがっていることをうかがわせたのである。

 

この年夏ごろには、秋にナイロビで開かれるIMF総会までに新たな国際通貨制度について実質的な合意に達するのは事実上無理という空気が支配的になっていた。客観的指標アプローチはほぼ葬り去られた。しかし、それが果たして国際的利益になったのかどうか、検証してみる価値があるだろう。この点は後述することにしたい。

 

変動相場制が続く中、他に代わるべき主要通貨がないというだけの理由でドルは依然準備通貨であり、基軸通貨である。従って米国経済は国際金融システムと表裏一体の関係にある。米国のインフレが高進すればドルの値打ちが下がり、国際通貨全体に影響が及ぶことになる。遡って見れば、米国のインフレがブレトンウッズ体制の崩壊につながったのは間違いない。米国では1973年初めから再びインフレ傾向が目立ち始めた。インフレ抑制には厳しい姿勢で取り組む必要があり、ドルの信認を回復するための国際的な要請でもあった。米国は金融引き締め政策に転換し、この年1月から8月までの間に矢継ぎ早に連続7回も公定歩合を引き上げた(8回目の引き上げは翌74年4月)。これには時期的にも遅きに失したという批判があり、しかも金融政策に偏重して財政面で必要な手が打たれていないという問題があった。

 

この背景にあったのは、大スキャンダル、ウォーターゲート事件の表面化である。1972年6月、ワシントンのウォーターゲート・ビル内の全国民主党本部に侵入して盗聴器を仕掛けようとした五人組が逮捕された。この侵入計画は大統領再選委員会が仕組んだものであることが次第に判明し、ニクソン大統領自身の関与が疑われ始めた。1973年5月から議会上院の特別委員会が事件に関する公聴会を始め、米国内は騒然とした雰囲気になった。テレビが公聴会を生中継するたびに、「米国のピューリタニズムは今やいずこ」と思わざるを得ない。ワシントン・ポスト紙はニクソン攻撃の急先鋒だ。そのおかげで共同通信ワシントン支局では交代で毎日夜半に街角で販売されるワシントン・ポスト紙の早版を買い求め、事件関係の記事のチェックに大わらわという騒ぎである。

 

この怪しげな霧が立ち昇り始めるや、ニクソン政権の指導力が弱体化するのはごく自然の成り行きだった。インフレ対策として財政面で強力な政策を打ち出そうとしても議会で否決されるのは必至という情勢だから、全く動きが取れないのである。ウォーターゲート・スキャンダルの暗雲はこの後一年余り続き、米国の政治、経済、外交は深手を負うことになる。上院特別委員会の調査開始によってニクソン政権の威信が失墜し、経済政策も実効を期し難くなったから、政策当局者の悩みは深刻化する一方だった。73年7月末の20カ国委蔵相会議では、もちろん通貨改革論議の具体的進展はなかったし、会議筋からは「シュルツ米財務長官の頭の中の半分はやはりウォーターゲート事件」という声が漏れてきたくらいである。

 

当時、ニクソン政権の指導力が失われたという見方から、ドル売り、株価の低迷に拍車がかかった。7月上旬の時点でドルの対マルク相場は年初以来27%も下落、ドルは既にだれからも見放された形で底なしの泥沼に落ち込んでいるという有様だ。こうなると、最早本格的な通貨改革論議どころではない。後に佐々木日銀総裁が「通貨改革論議が最も混迷した」という印象を漏らした9月末のナイロビでのIMF総会で、フランスのジスカールデスタン蔵相は通貨交渉の一年間棚上げを提案したのだ。これは変動相場制が一応機能していることでもあり、一方改革は客観的指標を葬り去った後展望が開けないままで、またここで窮地に立っているニクソン政権を追い込むとドルの立場を一層不安定化させる恐れがある、などの事情を考慮したのだろう。

 

◆◇石油危機が与えたボディーブロー◇◆

 

通貨制度改革論議の腰を完全に折ったのが73年10月の石油危機である。世界的なインフレとドルの弱体化に乗じて産油国が第4次中東戦争勃発の機会を捉え、石油価格を4倍に引き上げたのだ。米国でも市民生活への直接の影響が避けられなかった。室内温度の調整やら、自動車の最高速度の時速50マイル(80キロ)への制限やら、自動車の相乗りやら、財務省がエネルギー節約の音頭取りである。11月に入ると東海岸では寒さが身にしみるようになったが、ショッピング・センターやスーパーマーケットなどの暖房温度も引き下げられているため、市民はぶるぶる震えながら買い物をしなければならなかった。車のナンバープレートの末尾が奇数か偶数かによってガソリンスタンドのサービスを受けられる週を違えたりした地域もあって、市民は一様に突如の石油ショックに振り回された。

 

この年夏から秋にかけて米国の貿易収支が大幅な黒字を出すようになり、ドルが急速に復調したため、石油危機直後、市場関係者の間には「困った時はやはりドル頼み」という楽観論が多数を占め、事実短期資本の順調な流入により翌74年1月末には対外投融資規制を撤廃するに至る(これには資本市場を通じたオイルダラーの還流を促す狙いもあった)。だが石油危機の影響が浸透するにつれてインフレ率が上昇し、景気後退、経常収支赤字の方向に向かうのである。私は12月上旬、見識の高いエコノミストであるシドニー・ジョーンズ商務次官補にインタビューした。ジョーンズ氏は当時のドルの“復権”には極めて懐疑的だった。同時に「エネルギー危機を乗り切る米国の能力には楽観的であり、実質成長には楽観的」としながらも、「世界的なインフレの問題があるし、農産物、エネルギー価格はますます上がるのではないか。インフレ問題にはむしろ悲観的である」とインフレについての厳しい見方を示した。ドルの“復権”は結局のところ“束の間の灯”にすぎなかった。

 

石油危機の衝撃で世界経済全体が景気後退に陥るのは最早必至という情勢である。このような状態では固定相場制を続けていたら、とても持ちこたえられそうにない。変動相場制だからこそショックを吸収できるというわけで、変動相場制支持者たちは“してやったり”といったところである。通貨改革論議はとどめを刺されたのだ。包括的な通貨改革交渉は73年12月初めに事実上打ち切り、翌74年1月中旬にローマでの20カ国委蔵相会議で交渉打ち切りを正式に決めた。

 

石油危機は先進国、発展途上国を問わず石油輸入国に深刻な打撃を与えた。世界経済はインフレが高進し、スタグフレーション(不況下の物価上昇)に陥る危険性が現実に迫ってきた。米国の世論は「中東産油国が石油を対米外交の武器として使っているのは腹にすえかねる」と“OPEC(石油輸出機構)憎し”の一色で染まり、米国外交は自由主義世界の安全保障の見地から西側諸国の結束を図る方策を検討し始めた。国務長官に就任していたヘンリー・キッシンジャー氏の出番である。ニクソン大統領が74年1月9日、エネルギー危機に対処するため2月にワシントンで西欧6カ国とカナダ、日本を含む国際会議(石油消費国会議)を開くことを提案した。無論キッシンジャー氏演出で、産油国をにらみ新たなエネルギーの国際的秩序を確立しようとする政治的なキャンペーンの性格を帯びている。

 

これは非常に複雑な金融問題として現実的に対応しようとしていた通貨当局の考え方とはすれ違っていた。通貨当局が最優先しなければならないと考えたのは、経済活動への打撃を食い止めるため産油国が手に入れた資金を金融市場に振り向けさせるオイルダラー還流策とIMFの特別融資制度(石油輸入価格の上昇で国際収支が大きな影響を受けている国、特に発展途上国に対する資金援助制度)の創設である。これらの対応策は1月の20カ国委蔵相会議に提案され、実現の方向に動き出していた。キッシンジャー氏の政策を見つめる目は初めから冷たい。

 

キッシンジャー氏提唱の会議の前座を務める形になったのが2月7,8の両日、プエルトリコのサンファンで開かれた日米欧財界人会議だ。急きょサンファンに飛び、取材したのだが、当時同地では通信事情が劣悪で、東京への電話がなかなか通じないのだ。ほかの通信手段もない。日本側代表で海外石油会社社長だった今里広記氏の部屋の電話を借りて東京と連絡が取れた時は、ほっと胸をなでおろした。肝心の会議では、米国代表が消費国と産油国との単独取引に強い懸念を表明して、消費国の抜け駆けを牽制した一方、EC側は米国の主導権の下ですべてを解決しようとすることにかなり警戒的な態度を示した。ワシントン会議の前哨戦としてのジャブの応酬といったところだった。

 

次は本番のワシントン・エネルギー会議である。サンファンからとんぼ返りして、2月11日から13日にかけて国務省会議室で開かれた会議の取材に臨んだ。サンファンは真夏、ワシントンは真冬、短期間の移動は身にこたえたが、弱音を吐くわけにはいかない。支局全員五人が一体となっての取材体制、さらに東京からの特派記者一人が加わり、私が主に本記係を務めた。西側先進国の外相、蔵相クラスを集めたこの会議では、最初から情報がてんでんばらばらで会議の主軸がどこにあるのか、まるで分からない。それまで経験してきた国際会議の取材とは全く勝手が違う。米国は会議を引き継ぐ機関の設置を意図したのだが、フランスは「それは一種の“閉鎖クラブ”だ」として反対であり、EC内部もフランスと英独が対立して足並みが乱れ、片や日本は産油国との協調関係を最重視するといった具合だから、西側消費国の共同戦線を組むどころの話ではないのである。事前に周到な準備をしないぶっつけ本番のこの会議は失敗だったのだ。会議に出席したボルカー氏も後に「会議はうまくいかなかった。外相たちは手続き上の論争に終始していた。難しい金融問題について中身のある合意を得るには、大蔵大臣とセントラルバンカーによる地味な交渉が一番」(「富の興亡」より)と皮肉交じりに述懐している。エネルギーの新たな国際的秩序を求め、主導権を取ろうとしたキッシンジャー資源外交は挫折し、米国の力の衰えを暴露しただけに終わった。

 

米国の貿易黒字は年明け後もしばらく続いたが、鉱工業生産は74年早々に大幅に低下し、一方卸売物価は大幅に上昇、米国経済は急速に冷え込み始めた。景気後退の回避とインフレ抑制の二つの政策課題に同時に取り組まなければならず、ニクソン政権の悩みは深まるばかりである。

 

◆◇財務省首脳の退陣とニクソン政権の終幕◇◆

 

突如として発表された米財務省首脳の辞任は、国際金融界に大きな衝撃を与えた。ホワイトハウスは74年3月14日、シュルツ財務長官が5月初めに辞任すると発表し、次いで4月8日にはボルカー財務次官が年半ばごろに辞任すると発表したのだ。シュルツ氏はかねてから疲労などを理由に辞意を表明し、ボルカー氏は約一年前から辞意を表明していたというのだが、この通貨当局責任者二人揃っての退陣は、どう見ても異常である。ウォーターゲート事件の落とした深い影を感じないわけにはいかない。時あたかもニクソン大統領の弾劾問題が議会で大きなヤマ場に差しかかっていた。シュルツ氏はウォーターゲート事件と自らの辞任との関係を否定したのだが、この事件のため相当嫌気がさしていたのは周知の事実だ。ボルカー氏は通貨交渉の立役者として活躍し、一区切りついた段階であることは確かだったが、事件が同氏の辞任の時期を早めたという観測が専らであった。最も重要な閣僚、幹部に愛想づかしされては、政権はもたない。他にも辞任を取りざたされ始めた大統領側近がかなりいて、ニクソン政権は今や“沈みかかった船”という気配が濃厚となってきた。

 

4月30日にニクソン新経済政策以来の賃金、物価統制の根拠となっていた経済安定法が失効したことも、ニクソン時代の終わりを象徴するものだったのかもしれない。統制が完全に解除されると、物価上昇圧力が勢いを増し、インフレに拍車がかかる。インフレ率は71年の4・7%から74年第1・4半期には既に年率10・8%と、平時としてはかつてない深刻な事態を迎えていた。これはインフレに対するニクソン政権の無策ぶりの表れである。大統領自身、弾劾問題に対する防戦に精いっぱいで指導性が全く失われているため決め手のないままインフレがさらに悪化することが懸念された。期待を一手に背負った形の連邦準備制度理事会がこの4月に公定歩合を空前の8%という水準に引き上げ、必死に金融引き締めを続けたものの、心理的効果の域を出るものではなかった。

 

通貨制度改革交渉の舞台となっていた20カ国委も形式的には続いていたが、米国の通貨当局首脳の退陣でまるでもぬけの殻同然である。6月のワシントン蔵相会議で内容の空虚な「通貨制度改革概要」なるものを承認して解散してしまった。この時の私の総括は並べてみるとこうだ。

 

「びっくりするような大きな活字が通貨問題で新聞の一面に躍るようなことは、これからはないかもしれない」

「変動相場制は乱世の中の均衡状態」

「通貨改革が達成できない理由の一つは政治的意志の欠如」

「できるだけ弾力的な仕組みの中で現実に起きる問題を『国際協調の原則』に立って解決していくというのが最大公約数的な通貨の展望である」

 

その後の通貨情勢の推移は、この総括の線にほぼ沿っているように思う。

 

夏が近づくにつれてニクソン弾劾問題はいよいよ風雲急を告げる。下院司法委員会は7月28日、ついにニクソン大統領弾劾訴追勧告を採択した。インフレ退治は景気鈍化との兼ね合いで政策のかじ取りが極めて難しい局面にあるというのに、有効な手が打たれる可能性は最早完全になくなったと言っても過言ではない。政権の威信をどん底に落とす決定打を浴びせたことになり、経済政策は半身不随から全身麻痺に陥ったのである。だが、しぶといニクソン大統領のことだから、なおも徹底抗戦して政権の座にしがみつくのではないかという観測も流れる。この時期、ワシントン駐在の特派員も交代で夏季休暇をとることになっているので、そのタイミングに頭を悩ませた。いつ大統領がどういう策に出るのか、まるで見当がつかない。休暇の場合、普通はマイカーや交通機関を利用して遠距離旅行をするので、何か起きても急きょワシントンに戻ることは、まず無理である。それでもいざという場合は残りの支局員でカバーしようという支局全体の意思統一ができたため、私は8月3日から休暇に入り、西海岸に出掛けた。

 

ロサンゼルスのモーテルで8日夜テレビを見ていたら何とニクソン大統領が全米向け演説で辞意を表明しているではないか。さわりのセリフは「国家の利益というものは、いかなる個人的な考えにも優先しなければならない」。ともあれ、終幕でも意表を突くいつものニクソン・スタイルである。経済担当者としての責任をどうしても果たさなければならないと判断し、急きょモーテルの部屋から電話で経済サイドの記事約100行を東京本社に送稿した。翌9日、ホワイトハウスを去る元大統領の姿をサンフランシスコのモーテルのテレビで見た。任期半ばで辞任した大統領は初めてだ。サウスローンから飛び立つ前のヘリコプターのタラップに立ち止まり、両手を挙げて挨拶する元大統領のこわばった笑顔からは、内に湛えた憂愁と苦渋を読み取れた。忘れ難い光景である。

 

元大統領は内外で罵詈雑言を浴びた。代表的なものを拾えば国内では「インフレも高金利もリセッションも、いっさいニクソンが悪い」、国際的には「下品で口汚い男」「卑劣な政治スタイル」「妄想狂」、日本の新聞紙上でも「破廉恥」「まやかし」「背徳性」などと相当どぎつい表現だ。米国の歴代大統領にはスキャンダラスなエピソードが結構あるが、在任中に表ざたになった例はそれほど多くはないだろう。ニクソン大統領の場合、辞任する前から面と向かってまさに“水に落ちた犬を叩け”の仕打ちを受けた感があった。

 

ホワイトハウスの記者室に突如現れ、しばらく発言した後、記者の質問も受け付けず、さっと姿を消すニクソン大統領をじかに見たことがあるが、やはり老獪な政治家で、相手を威圧するようなカリスマ性も備えているという印象だった。この超大国の最高権力者としての存在感はかなりのものがあったのである。国際的にも彼と堂々と渡り合えた政治家は数少なく、歴史的な米中和解の中国側カウンターパートだった周恩来首相がその一人だったのではないだろうか。

 

この米中の関係修復をはじめベトナム停戦、新経済政策など、他の大統領では容易に成し遂げられなかったと思われることを、彼は断行した。72年の大統領選挙でニクソン大統領の再選はまず間違いないとされていたのに、ニクソン再選委員会はなぜウォーターゲート事件を引き起こしたのか、大統領自身なぜこの事件に関わったのか、私は疑問に思っていた。盗聴というのは、権力側にしてみれば、ごくありふれた手法で、何ら罪悪感はなく神経が麻痺していたことは十分考えられる。大統領の関与については、彼の共和党の盟友だったハワード・ベーカー氏(元駐日米国大使)が「私の履歴書」(2009年1月12日付日経新聞)の中で答えている。事件が起きる前にニクソンがそのことを知っていたとは思えず、諜報関係に従事する人間が何らかの政治工作に手を染めているぐらいの認識はあったのかもー。さらに、事件後に初めて事件の全容を知らされたと思われるニクソンは、その時即座に事件に関わった全員を解雇すべきだったが、「側近、友人たちへの友情、忠誠心を重んじるあまり、逆に事件を隠そうとした。それこそが彼の犯した致命的な誤りだった」としたベーカー氏の指摘は、なるほどと思わせるところがある。とすれば、ニクソン大統領は一人の人間として側近を切って捨てるほど非情にはなれなかったということだろうか。

 

中国との和解、ベトナム撤兵などは、大統領がキッシンジャー氏と組んで世界の構造変動をも見据えた高度の政治的判断、現実的な政策として評価してよい。だが、この事件による一年余の政治的空白は、米国はもちろん、世界にとっても大きな痛手だった。インフレ抑制に対する無策ぶりからドルは泥沼にはまり込んだ。大統領が指導力を発揮できるような状況であったなら、彼が国際通貨問題を苦手としていたとしても、側近のかじ取り次第では通貨制度改革論議も混迷から救い出す道が開けたのかもしれない。

 

米国のGNPは74年第1、第2・4半期と二期連続マイナスとなる一方、インフレは抑制されず、スタグフレーションの様相が濃くなる中、フォード新大統領はウォーターゲート事件の傷をいやしつつ、いかにして経済を安定させるかという重い政策課題を背負った。私は8月11日ワシントンに帰着、12日には早速、上下両院合同会議におけるフォード大統領就任後初の所信表明演説をフォローした。大統領は、“多様性の中の団結”を目指すと約束、インフレ抑制を内政の最優先課題として掲げた。インフレが「公敵ナンバイーワン」として超党派的な議会の協力を要請したのだ。それは政治に対する米国民の信頼感を取り戻すための決意表明でもあった。

 

フォード一家では大統領就任後、ベティー夫人が乳がんで乳房切除の手術を受けたのだが、そのころテレビ画面に映し出されたフォード大統領の顔には愛妻を気遣う心痛の色がはっきり表れ、この人の穏やかな人間性をおのずと見せていた。米国が立ち直るための癒し役としては適任だったのだろう。それから一年余り先の話になるが、天皇、皇后訪米の際の75年10月2日、ホワイトハウスのサウスローンでの歓迎式典の席上、フォード大統領がお立ち台でやや緊張した面持ちの昭和天皇をいたわるように気遣っていた姿を私はすぐ近くで目撃した。大統領のこの姿は深い印象を私に残している。

 

◆◇体制崩壊の危機感からサミット誕生◇◆

 

さて石油危機の影響が広がるにつれて世界経済は大きくあえぎ続けた。74年9月15日に発表した年次報告の中でIMFは「世界経済は74年半ば現在、石油価格の異常な上昇を背景に、悪質広範なインフレ、経済成長の低下、国際収支の不均衡という三重苦に悩まされ、第二次大戦後最も複雑、深刻な状況に置かれている」との認識を示した。「世界経済は荒海の中でインフレの巨岩とデフレの大渦の間をさまよう小舟」としたウィッテフェーンIMF専務理事の発言もなかなか言い得て妙である。

 

フォード政権は9月早々からインフレ抑制ムードを盛り上げるため全米的なキャンペーンに乗り出したが、実質成長率の方は第3・4半期もマイナスと74年初めから三期連続のマイナスで戦後6回目の景気後退入りとなったのである。インフレ対策の決め手をつかめないまま連邦準備制度理事会は景気後退の深刻化を重視し、民間消費を維持するため 12月に公定歩合を8%から7・75%に引き下げ、本格的な金融緩和に転じた。いったんこうした状況になると、物事には弾みがついてくる。年明けの75年1月、2月、3月、5月と目まぐるしいほどの公定歩合の連続引き下げ(さらに76年1月に資金需要の停滞から通算連続6度目の引き下げ実施)である。この間、75年2月初めにはワシントンで自動車産業の失業者一万人が「仕事よこせ」の決起集会をする騒ぎがあり、3月末には米国史上最大規模の減税法(総額248億ドル)が成立した。景気後退とインフレ高進のまさに大スタグフレーションである。74年第4・4半期に続き75年第1・4半期も実質成長率はマイナスで、実に5期連続のマイナス成長と米国は戦後最長、最悪の景気後退を記録した。世界経済全体でも激動と混乱の連続であり、西側陣営に体制崩壊の危機感がひしひしと迫ってくるようだった。

 

米国の景気は75年第2・4半期には底入れしたのだが、インフレの危機的状態は続き暗雲は晴れないままである。石油と通貨の重大な懸案は依然世界経済に重くのしかかっている。西側の体制崩壊を防ごうとイニシアティブを取ったのはフランスのジスカールデスタン大統領だ。彼の強力な政治力でEC首脳会議(75年7月16,17の両日)は、米英独仏日の五大国首脳を集めた通貨会議の年内開催を働き掛けることを決めた。これが初の先進国首脳会議(サミット)開催の出発点となった。だが、この開催はすんなり決まったわけではない。指導力が落ちたとはいえ依然西側の盟主をもって自他ともに任じている米国として、フランスが主導権を取ることは面白いはずがない。米欧間、特に米仏間の激しい主導権争いとなった。

 

フランスはこの首脳会議で「為替相場制度を巡る論議と他の通貨改革案件の一括処理」をしたい考えだった。世界経済の混乱の原因は変動相場制にあるので固定相場制に復帰すべきだというのが従来からのフランスの主張である。具体的には、西側陣営に広がっている経済的不安感、信頼感の欠如は、すべて為替相場制度の不安定に根ざしているという判断の下に、変動相場制から固定相場制度へ復帰する約束を米国から取り付けることがジスカールデスタン大統領の狙いだったと見られる。

 

これに対し米国としては客観的指標の導入が否定されている以上、変動相場制を維持するという立場に変わりはなく、うっかり首脳会議構想に乗ると経済問題専門家でもあるジスカールデスタン大統領、シュミット西ドイツ首相のペースに引っ張り込まれるのではないかと強い警戒心を抱いた。EC首脳会議の直後の7月21日、サイモン米財務長官が議会証言で変動相場制を擁護し、「現在の状況で固定相場制に復帰する企ては重大な誤り」とまで言い切ってフランスを牽制、首脳会議の開催には乗り気でないことをはっきり示した。学者肌のシュルツ前長官からバトンタッチを受けたサイモン長官は、ニューヨークの投資銀行サロモン・ブラザーズの重役を務めたことのある実業家出身で、相場師並みの口八丁手八丁がトレードマーク。舌戦では、だれも容易に太刀打ちできそうにない“つわもの”だ。日本は当初、三木内閣がこの首脳会議構想に前向きの姿勢だったが、日米首脳会談(8月5,6の両日)を機会に「いずれ慎重に検討する」と態度を大幅に後退させた。米国に同調するよう説得されたのは明らかだ。フランスもこの時点で米国を一気に承服させるのは無理と判断したのだろう。8月24日のEC蔵相会議で固定相場制への復帰問題は秋のIMF総会後の継続審議とするという弾力的態度に転換した。虚々実々の駆け引きはこの後も続く。

 

米国も8月30日の日米蔵相会談でサイモン財務長官が「首脳会議が通貨改革に関する技術的な問題を取り上げるのなら反対だが、政治、経済に関する全般的な問題を議題とするなら賛成であり、開催する以上は周到な準備が必要」と歩み寄りの姿勢を示し、大平蔵相もこれに完全に同意した。だが、それで開催の見通しが開けたと言える段階ではなかった。日米の態度は、フランスなどのメンツをつぶさないよう配慮しながら、首脳会議構想を自然消滅させることを狙っているのではないか、という観測さえ流れていたのである。

 

首脳会議は果たして開催できるのか。9月に入り米国は国連経済特別総会を舞台にキッシンジャー国務長官の大上段に振りかぶった経済安全保障構想を打ち出し、米国の主導権の下に世界経済の再編成を目指す作戦に転じた。9月初めのIMF総会では膨大な流動性、世界インフレの現状の下で今直ちに固定相場制度に復帰するのは現実的でないという空気が支配的で、為替相場制度問題について米仏が妥協する気配も漂い始めた。こうなると首脳会議を開いても、米国が通貨、景気対策などで一方的に譲歩を迫られる恐れはないということになる。水面下の折衝もあって首脳会議は実現の方向が見え始めたのである。シュミット西ドイツ首相は、世界不況からの脱出策について米国の一層の協力を取り付ける必要があるという考えから首脳会議開催を推進してきた。首相は10月3日、ホワイトハウスでフォード大統領と会談して説得に当たり、首脳会議開催について米国の同意を得た。これでサミットの開催は事実上決まった。

 

10月5,6の両日、ニューヨークで開いた首脳会議準備会議では通貨、貿易問題を含め幅広く経済、政治問題を扱うことで基本的に一致し、意見交換と相互理解を通じ協調体制の確立を目指すことになった。体制崩壊の危機を乗り越え、西側の結束を何とか固めるお膳立てがほぼ整ったのだ。後は首脳会議を待つばかりである。

 

ジスカールデスタン大統領、キッシンジャー国務長官の演説は、さながら初のサミット開催の前景気をあおる効果を上げたようだ。世界経済新秩序の樹立を提唱した10月28日の大統領の演説には、重要なメッセージが盛り込まれていた。安定した固定相場制度への復帰を求めながらも「近年の経験から伝統的な固定平価制度は厳しすぎ、一定の弾力性が必要」とした指摘は、為替相場制度問題で何らかの妥協策を探っていることを匂わせたものだろう。同時に「世界経済新秩序は一時的な力関係によって一部の国が他の国に勝利するといったものであってはならない」と米国の一極覇権の時代の終わりをも告げた。キッシンジャー国務長官の11月11日の「先進工業民主主義国と将来」と題した演説はジスカールデスタン演説に反論を試みたものだ。「首脳会議を経済だけに絞らず、あらゆる分野における同盟国の協力を強化するステップとし、共通政策の目標を設定しなければならない」としながらも、「特別の責任は米国にある。われわれの経済は世界で最大かつ最もダイナミックなものである。米国はその責任を遂行するつもりだ」と覇権国の座を守る強がりの態度を示して見せた。

 

この年秋のIMF総会のころ米仏間で為替相場制度問題について妥協を図る兆しは見えていたのだが、この後、米国が主張する変動相場制を選択する自由、フランスが主張する安定かつ調整可能な平価制度への復帰という両者の論争に当面何らかの決着を付けておこうとする動きが急速に高まった。和解が成立したことはサミットの最終日に公表された。実は、この和解を受けて初の先進国首脳会議が11月15日から17日までの三日間、パリ郊外のランブイエ城で当初予定していた五カ国にイタリアを加えた六カ国の首脳を集めて(翌年からカナダを加えG7に)開かれたのだ。私はこのランブイエ・サミットをワシントンからトレイス(追跡)した。通貨関係者から見た場合、サミットは変動相場制を認知し、IMF協定の改正に合意することに最大の意義があった。この問題で全員が合意し、翌年1月にジャマイカのキングストンで開かれるIMF暫定委員会(IMF20カ国委員会の後身で秋のIMF総会で設立)でのIMF協定改正への道筋を付けたのだ。為替相場制度を巡る米仏の対立は、それ自体が世界経済にとって不安定要因になっていただけに、米仏の和解に基づいて「変動相場制の管理強化」という現実的な妥協をしたことがサミットの重要な具体的な成果となった。

 

ランブイエ宣言は、経済回復と持続的な経済成長、インフレ再燃の防止、世界経済における経済、金融の条件安定、為替相場の大きな変動の阻止、輸入石油への依存度の減少―などを並べ立てた。そして「世界の相互依存関係がますます緊密になっていく中で、宣言に盛られた目的を実現するために、われわれは最大限の役割を果たし、国際協力の緊密化とすべての国の間の対話の努力を強化する」と謳ったのである。たまたまと言っていいだろうが、75年第3・4半期に米国の実質成長率が年率11・2%(その後の改定値では13・2%)と景気が予想以上に急速な上昇過程に入り、貿易黒字が増え、ドル相場が相対的に安定したことも手伝って、米国はサミットに非常に強気な態度で臨んだのは確かだ。私はサミットの閉幕後、「米国はランブイエ会議を西側同盟構築の一つの足掛かりとし、これを踏まえ今後協議を重ねることによって長期的に政治、経済における西側の相互依存の絆を強化していくことを重視している。西側陣営の政治、経済、ひいては軍事にわたる緊密な協力と責任の分担によって、不況やインフレの進行に揺らぐ資本主義の欠陥と民主主義の脆弱性を完全に克服するのが、米国の長期的な戦略目標である」とした米国の反応を打電した。これは当時、サミットに寄せたフォード政権の意気込みだった。

 

このころ西側が乗り出した金融支援協定の締結、国際エネルギー機関(IEA)を軸とする国際エネルギー政策の推進、産油国との対話の開始、南北問題に対する取り組みなどに、米国なりの役割は果たしてきた。ランブイエ・サミットによって、危機に臨んで西側がスクラムを組むことに成功したと胸を張るデモンストレーション効果はあったのだろう。

 

だがサミットは結束を固め、難問を克服するための具体的なシナリオを作って見せたのだろうか。後年、ボルカー氏は「金融、経済の安定のための秩序ある基礎となる状況を達成するため各国が緊密に共同作業をする必要性が喚起されているが、必要とされる協力がどのようにして行われるべきか、という点についての実際的な手引きは何も示していなかった」(「富の興亡」より)と痛烈に批判した。これは非常に重要なポイントを突いた指摘だ。このころ圧倒的なスーパーパワーの不在、世界経済の混迷と漂流の中でいかにして世界の新たな秩序を作り上げるかという観点から、政策協調が先進国の重大な課題になっていた。この政策協調を言う場合、念頭にあった意識は、世界各国の共通の利益のための各国の主権制限である。当時、国家主権の制限、経済主権の一部放棄が必要という意識は広がり始めていた。主要国のマクロ経済政策の協調を図るためのIMFのような国際機関による介入、客観的指標アプローチなどは、主権制限ないし主権の一部放棄の部類に入るのだろう。現実には、サミットの主流は「意見交換と相互理解」による西側の結束強化という精神論にとどまり、主権制限問題に踏み込むことはなかった。米仏両国とも口ほどにはリーダーシップを取る力はなく、デリケートな国内政治問題になることを恐れ、主権制限を具体化する勇気も決断もないまま今日に至っている。

 

◆◇制度再構築のための“つなぎ”はいつまで続くのか◇◆

 

変動相場制を公認するIMF協定改正を主な狙いとするIMF暫定委員会が1976年1月7,8の両日、ジャマイカの首都キングストンで開かれた。私がキングストンに足を踏み入れたのは初めてで、一見のどかな南国の風情だが、当時は毎日殺人事件が一件は発生すると聞いて、その治安の悪さに驚いた。だが会場のペガサス・ホテルは設備も立派で、従業員のサービスも行き届いている。食事の際に出てくる南国の果物もおいしそうで、つい手が伸びてしまう。これは後でお腹を壊す災いのもとになったのだがー。

 

国際通貨制度改革論議は石油危機のあおりでとっくに頓挫していたが、このIMF暫定委員会は、ニクソン・ショック後の国際通貨の混迷を最終的に収拾するという位置づけになり、合意内容は当初ブレトンウッズ体制を引き継ぐ新たな“キングストン体制”の誕生と囃したてられた。中身はIMF監視の下の変動相場制の公認をはじめ金の公定価格の廃止、最貧国援助のための信託基金設置、IMF一般貸出制度の拡大など、現実的な要請に基づく最小限必要な問題について一括合意したもので、いわば終戦処理だから、とても体制と称し得るものではなかった。これは、あくまでも国際通貨制度再構築までの“つなぎ”なのである。二日間の討議を通じて各国が激しく対立するような局面が全く見られずに終わったのも当然と言える。

 

私が討議を続行中の会場の近くに待機していた時、大平蔵相が外の空気を吸いたかったらしく、ひょっこり出てきて、お茶でも飲もうかということになり、ホテルのプール・サイドでコーヒーのご相伴に与った。蔵相の“自前”のコーヒー・ブレイクである。会議は実質的には手打ち式みたいなものだが、一つの区切りであることは間違いない。英文で発表されたコミュニケを手にするや電話に飛びつき、まさに勧進帳よろしく相当難解な文章を即座に(がむしゃらに)日本語に訳して本社に送稿した。このようなコミュニケの類を実際に読む読者は通常は限られているだろう。それでも中央紙を含む多くの加盟紙がこのコミュニケまで大きく掲載したことを後に知り、私個人のクレジット付きではないものの自らは面映ゆい気持になった。

 

閉幕後の記者会見での大平蔵相の発言は極めて含蓄に富むものがあった。

 

「ニクソン・ショックから始まって石油ショックで増幅した世界経済の危機を一応終息させた。完全な姿ではないが、取り繕うことができたという感じだ。IMF体制が崩壊に瀕していたのを、ともかく繕って難破から救ったという感じですね。協調体制の立て直しに成功したとまでは言えない。油断したら壊れてしまう。先進国と途上国の協調、理解と協力が絶対に必要だと思う」

 

「ドルの疲労から問題は起こった。要するにドルが世界経済の主軸になり、揺るぎない信認を持っていた当時は、東西問題も南北問題も一応の取りまとめができた。(今回の危機では)一応崩壊に至らずに、暫定委の名前が象徴するように暫定的に収めてしまった。将来どうなるかは、各国が努力して協力の実が上がるかどうかにかかるのではないか」

 

「ドルの疲労とは、ゴールド・アウト(金との交換性停止)にしたことだ。(だが)依然としてドルが基軸通貨であることは間違いないし、揺るぎない。(ただ世界経済が)高速道路を走るような状態はドルが強かった時だ(ドルの疲労によりこれまでのように高速道路を走るのは無理との意味)。対ドル関係をどうもっていくか常に考えている。ドルは相対的にはリライアブルな通貨だ。これがしっかりしてくれなければならないが、(それが)手に届かないところにある」

 

「(各国間の)格差はますます拡大していく。格差縮小と言っても、ある意味では絶望的だ。だからといって放置できない。あらゆる可能な手段を尽くさなければならない。ギブアップするわけにはいかないと思う」

 

「昨年11月のランブイエ・サミットでも(先進国の利害対立について)心配する向きがあったが、先進六カ国の間に(国際協調への努力について)コンセンサスができた。今度のジャマイカで一応当面のIMF協定改正を仕上げ、当面の収拾をやろうという合意ができた。今日の世界は皆で協力して支えなければ大変だという協調の精神は機構的にも出来上がってきた」

 

「(国際的な政策協調で国内政策が影響を受けるかについて)両立するようにやっていかなければならない。日本の経済政策は一つしかない。ちょうど飛行機の航路が決まっているようなものではなかろうか。大体飛ぶべき道は、どの国も決まっている。ルールを守らないと世界は目茶苦茶になってしまうのではないか」

 

「(国際通貨の長期的見通しについて)フロートを続ける中で、できるだけモア・ステイブル(より安定的)な状況が出てくるような、そういう努力を重ねていくのだろう。相当長きにわたって続けなければならない。それから何が来るか、まだ判断がつかない」

 

蔵相はジャマイカ会議の結論をいみじくも「取り繕い」「当面の収拾」と表現した。協調体制の立て直しに成功したとは見ておらず、慎重な判断に終始している。この時の発言は、蔵相の優れた見識と深い洞察力を示している。

 

大平蔵相が「手に届かないところにある」としたドル。米国は当時、一体どう考えていたのか。ランブイエ・サッミトのころのサイモン財務長官の発言はこうだ。「過去十年間における41%というドル価値の下落は、米国の国内経済に根ざしている。インフレ要因には、石油価格の上昇、食糧危機もあるが、主因は1960年代半ばからの誤った予算、財政政策にある。73年、74年にわたったインフレの波は、ドルの価値を下げると同時に、米国の景気後退を引き起こす主因となった」。彼の発言は 節度のない米国の放漫財政の責任を認めたものとして私は注目した。ただドルの信認を回復し、国際通貨制度再構築のためリーダーシップを取る用意は米国にはなかった。

 

通貨無秩序時代に入って三年。変動相場制は緊急避難策、非常手段のはずだった。この制度では相場を基本的に市場に委ねることによって黒字国の通貨は上がり赤字国の通貨は下がって貿易不均衡は秩序だって自動的に調整される、というのが制度支持者の触れ込みだったが、現実にはそのような均衡回復機能はないことが、だれの目にも明らかになってきていた。変動相場制の管理強化と言っても、それも実際にはできない相談だった。

 

為替レートが安定しなければ、経済は安定しない。だが新たな国際通貨制度の姿は全く見えない。無秩序な状態が延々と続きそうな気配が強まる一方である。ドルは依然、準備通貨、基軸通貨として使われ続ける。国際的な不均衡がますます拡大しても、これを是正する仕組みを欠いたままだ。為替相場は激しく変動するのが当たり前ということになる。米国が経常収支の赤字を改善し、財政の節度を守らない限りドルはどんどん増刷されて、国際流動性はあふれんばかりに増大する。あり余ったおカネから利益を生み出すために人々は血眼になり、少しでもおいしい餌にありつこうというわけで、投機は燃え盛る炎のように広がった。

 

この後、世界経済はどういう経過をたどったのだろう。経済のグローバル化が進み、ヒト、モノ、カネが国境を越えて自由に動き回り、世界の金融市場が一体化し、あきれるほどの規模に肥大化した。主要各国間の格差の拡大は流動性を一層膨張させる結果を生んだ。世界中にばらまかれたドルを有利に運用するための金融工学が異常なほど発達、金融市場はカジノと化した感になった。市場は全くコントロールされないまま、ITを駆使して相場の変動を狙い荒稼ぎできる世界が常態化したのである。近代資本主義のエートスとは無縁の世界だ。

 

不均衡は一向に調整されないためバブルが発生、崩壊を繰り返し、金融危機が頻発する。しかも一時的にドルが復権し、米国が市場経済の主導権を握っても、それがドルの信認が回復し、ドル不安が解消したということには結びつかないのである。世界経済の混乱に終止符は打たれておらず、不安定な状態のまま推移している。これはグローバル資本主義の危機と私の目には映る。やはり経済的不安定、信頼感の欠如は為替制度の不安定に根ざしているという、かねてからのフランスの主張は今も説得力がある。

 

世界が互いに依存し合う運命共同体であることは間違いない。不均衡が調整される仕組みを国内政策でも国際通貨制度でも作り上げていくことが求められている。各国とも自分勝手に振る舞わず国際的利益を考えた経済運営をすることが肝心だ。必要な場合、国内利益よりも国際的利益を優先する覚悟も必要となる。とりわけ基軸通貨国である米国は、規律なくドルをたれ流さないよう経済体質を根本的に改めるべきである。これを具体化する力は本来米国経済に備わっているはずだ。

 

国際通貨制度の再構築に当たっては、弾力性のある安定的で調整可能な固定平価制度が世界的な利益となろう。国際金融システムとしての変動相場制は、あまりにも不安定、無秩序であり、“つなぎ”の措置がそのまま固定化、長期化しているのは、あまりにも理不尽である。その弊害は既に極限に達しているのではなかろうか。世界はこうした状態に不感症になっているようだ。包括的な通貨改革交渉の中で欧州、日本は米国の提案した客観的指標について主権にかかわる事項を一定の指標で自動的に決定するのは認められないなどとして反対したが、客観的指標をいったん採用し、必要に応じて修正を加えるという選択肢はあった。野放図な変動相場制よりも、余程ましである。フランスが客観的指標アプローチを修正したものに妥協する姿勢を示した時期もあったことを思い浮かべる。

 

新しい政策協調に向けて努力する必要性が叫ばれて久しい。世界経済の安定のためには、国家主権の制限、一部放棄もやむを得ない段階に入っている。世界経済に責任のある主要国は現状を直視し、新たな国際秩序を打ち立てるしっかりした政治の意志をまず確認すべきだ。局面を打開するのは容易ではないにせよ、英知を結集してマクロ政策の協調、国際通貨制度の再構築について具体的な青写真を描くことが急務だと思う。

(元共同通信記者 2015年1月記)

 

 

 

ページのTOPへ