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サマート・スマグーロフさん ソビエト将校の誇りとカザフ人の英知(石川 一洋)2014年11月

1992年春、セミパラチンスク核実験場の放射線防御部隊研究室。「放射線防御部の責任者としてあなた方の除染をせずにこの実験室を出すわけにはいかない」。鋭い眼光のカザフ人・サマートが机の上に出したのは、純粋アルコールと水、黒パンだった。アルコールと水を混ぜ、飲み干すのが実験場伝統の〝除染〟だった。私の品定めをしたのであろう。


サマートの愛称で米ソの核実験関係者に親しまれたスマグーロフ大佐は、セミパラチンスク核実験場の最後の放射線防御部長だ。ソビエト将校の誇りと矜持、遊牧民の末裔カザフ人としての英知を備えていた。大学で核物理学を専攻、卒業後の70年、国命で実験場に配属、地下核実験の専門家となった。地下核実験探知技術の確立のために88年、米ソ共同で行われた地下核実験のロシア側責任者となった。生きた核実験のデータベースだった。


セミパラチンスク核実験場は、いまの中央アジア・カザフスタンの北部にあるソビエト連邦最大の核実験場だ。その中核が放射線防御部だった。核実験の時の放射能の拡散状況を予想し、実験直後に調べ、さらに核実験場内の放射能汚染地帯を管理し、科学的な調査を継続する部隊だった。チェルノブイリ原発事故直後に現場に入り、放射能測定を行ったのもサマートら放射線防御部隊だった。危険を冒し4号炉の屋根などの除染を行ったのもサマートらである。


部隊の歴史には、72年当時のトラーピン部長がブレジネフ書記長に核兵器の廃絶を訴える手紙を書き、解任されるという事件も起きている。厳しい情報統制の中で、サマートら放射線防御部の部下たちはその手紙の原文を密かに保管し続けた。このエピソードは93年放送のNHKスペシャル「核実験戦慄の記録」の中で紹介した。サマートとの出会いがなければ知ることはなかったろう。


「ソビエトがスターウォーズに備え、核実験を行った場所です」。94年夏のことだった。岩山から直径2メートルを超える金属製の筒が、まっすぐ1キロほども伸びていた。筒の中は宇宙空間を想定して真空とされ、その中に衛星や通信機器、ミサイルの誘導装置などが置かれた。80年代、第4世代の核爆弾を地下で爆発させ、指向性のある放射線が真空の筒の中を通過した。宇宙空間での核爆発の効果を調べたのである。


サマートはソビエト将校の誇りを生涯大切にしていた。94年、セミパラチンスク核実験部隊は解体され、放射線防御部の歴史も閉じた。その夏、サマートは私の前で泣き崩れたことがある。そして案内してくれたのが地下核実験の跡地だった。核実験部隊が解体されれば、地下核実験跡地の保管もできなくなるだろう。その前に映像として記録に残しておきたいと思ったのかもしれない。


晩年、サマートはロシア中部のサラトフで年金生活者として暮らした。しかし、まさに偉大な年金生活者だった。北朝鮮で核実験が起きれば、地震波などから直ちに核爆発の威力を計算した。福島の原発事故の時は、チェルノブイリの経験から巨大なコンクリートミキサーを原子炉の冷却に使うよう提案した。サマートが紹介すればロシアの研究所の扉はいつも開いた。


今年7月「パパが死にました」というメールが届いた。サマート、まだ68歳だった。


(いしかわ・いちよう NHK解説委員)

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