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日の丸事件を裁いた宮城京一さん 沖縄の戦後見つめた憲法論(松元 剛)2014年9月

1987年10月の海邦国体で、沖縄戦後史に刻まれる「日の丸焼き捨て事件」は起きた。読谷村であったソフトボール競技の開始式で、掲揚台の日の丸が引きずり下ろされ、燃やされた事件だ。


裁判で、弁護側は「掲揚強制は、反戦平和の感情が強い読谷村民の思想・信条の自由を侵す。焼き捨ては正当な抵抗手段」として無罪を主張した。那覇地検が器物損壊罪などの起訴状に「国旗」と記したため、弁護側は「国旗の法的根拠はない」と反論し、「国旗論争」が重要な争点に浮上した。


本土に対する複雑な県民感情がくすぶる中、公判が開かれるたびに、那覇地裁周辺で被告の支援者と右翼団体が激しくぶつかり合った。駆け出しの司法担当記者時代の忘れ難い取材である。


日の丸が国旗か否かを初めて法廷で問い掛けた事件の一審判決を下したのが、宮城京一さんである。宜野湾市に生まれ、琉球政府職員から転身し、裁判官を目指した。米軍統治下の沖縄からパスポートで本土に渡り、苦学して司法試験を突破した異色の経歴を持つ。


93年5月の一審判決で、宮城裁判長は「起訴状記載の『国旗』は、日の丸旗を指すと理解できる」と言及し、「日の丸を国旗として用いるか、いかなる場合に掲揚するかは個人の自由意思に委ねられている」との判断を示した。


琉球新報を含め、報道の大勢は「日の丸は国旗 初の司法判断」だったが、多くの法学者から「焼かれた旗を日の丸と特定しただけで、国旗認定ではない」との批判が噴き出した。


その年の仕事納めの日。裁判所内を巡っていた私を宮城さんが書記官室に招き入れてくれた。泡盛を酌み交わしながら、ひょうひょうとした語り口で品のある冗談を繰り出す。法廷での険しい表情とは打って変わった座談の名手で、私は何度も腹を抱えて笑った。


頃合いをみて、「あれは国旗認定だったのか」と聞いてみたが、笑みをたたえた宮城さんに「その話はグソー(後生)でしましょうや」と優しくいなされた。


95年に退官した宮城さんが判決の真意を語ったのは99年になってからだ。「国旗・国家法」に関する取材に応じてくれた時である。


宮城さんは「掲揚する、しないは国民の自由。立法化すると個人の意思が束縛される。法律は独り歩きする」と危惧した上で、あの判決を淡々と振り返った。


「焼かれた旗が何かを特定しただけで、国旗は日の丸と認定してはいない。それが伝わらず残念だったが、日本語の難しさですね」


「宮城判決」を読み違えた自分のふがいなさを痛感する一方、胸のつかえが取れた気がした。


憲法論を聞くと、宮城さんの言葉に力が増した。「憲法9条を変える必要はない。戦争で多大な犠牲を払った沖縄の非戦の誓いが反映された良い憲法だ」が持論だった。戦後の基地の島・沖縄の歩みを見つめてきた法曹人としての使命感が表れていたように思う。


宮城さんが懸念した通り、学校での日の丸掲揚、君が代斉唱時に起立を拒んだ教職員の処分が続いていた2008年夏、訃報が届いた。享年76。法廷を見渡すかのような鋭い眼光の遺影が忘れられない。


特定秘密保護法が成立し、集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。平和憲法が試練を迎えたいま、「法律は独り歩きするものだ」と警鐘を鳴らした宮城さんは何を思うのか。かなうなら、あの座談とともに話を聞いてみたい。


(まつもと・つよし 琉球新報社編集局次長)

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