取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
天上の栄光と地上の混迷と アポロ11号・月面初着陸の頃(吉村 信亮)2014年8月
1968年初夏にニューヨーク支局に赴任する時、駆け出し特派員の主な仕事は国際連合本部の表門取材と、アメリカ社会を裏窓からのぞくことぐらいと考えていた。ところが、あらゆる反体制運動のルツボと化した、この大都会に腰を落ち付けて間もなく、東京本社から思いがけない指令が飛び込んできた。佳境に入りかけていた宇宙開発の主柱であるアポロ計画のカバーに当たれ、というのである。こうして、にわか科学記者の頼りなげな歩みが始まった。それは、まばゆいばかりの「光」の輪の中に入って行くのと同時に、不安な「影」の対照にも目配りせざるを得ない道程であった。
◆◇ケネディ大統領の至上命令-国威賭けた「月面着陸」計画◇◆
1960年代末までに人間を月面に着陸させ、無事に地球に帰還させよ。宇宙探査にとって、これほど達成困難で費用を要するものは他にないけれど――。就任早々の61年5月にジョン・F・ケネディ大統領の発した至上命令の下に、アポロという名の巨大科学プロジェクトは、すでに轟音を響かせて加速していた。その直接の動機は、第2次世界大戦での独り勝ちに気をよくして、50年代の惰眠をむさぼっていたアメリカを揺り起こした、旧ソ連発の史上初めての人工衛星打ち上げ「スプートニク・ショック」への国威を賭けた反撃であり、もっと視野を広げれば、この計画は人類史上かつてない、地球以外の天体に足跡を刻もうとする壮大な「ニュー・フロンティア」の夢追い事業であった。私は、あらかじめ終着駅到着時刻の定められた「アポロ新幹線」に、ろくな事前知識もなしに、取材目的の名目で途中飛び乗りの形となった。
アメリカ人をはじめ世界の人々がアポロ計画の全体像を明確に意識し始めたのは、68年末に打ち上げられたアポロ8号の飛行だったろう。それは初めて月周回軌道に回り込み、月の背中を前景として、その先の宇宙の暗黒の大海に浮かぶ青い地球の姿をテレビ中継したのだった。時はあたかもクリスマス・イブ。人々は「宇宙のロマン」に酔いしれた。
私がアポロ取材戦線に実地参加したのは、年が明けて69年3月打ち上げの9号からだった。このミッションは地球周回軌道上での予行演習で、飛行士たちは司令船(CM)から連結する月着陸船(LM)への移乗テストに成功した。私はフロリダ州ケネディ宇宙センターの発射台から5km近く離れた記者席で、「世界最大の人工騒音」というサターン5型ロケットの発射音と、机を躍らせる激しい振動に驚くやら、打ち上げ後すぐに有人宇宙センターのあるテキサス州ヒューストンに慌ただしく空路移動する早業に息を切らしたことだった。
そんな間にも、米航空宇宙局(NASA)の巨大計画は自信たっぷりに疾走していた。本社ワシントン支局のM支局長、O支局員のインタビューに応じたトーマス・O・ペイン局長は、このように答えている。
「アメリカの月面一番乗りは間違いない」
「月の石は70年の大阪万博でお見せする」
「宇宙開発に巨費のかかることに批判があるが、国家再建の基礎部分に国費とエネルギー投入を惜しまず、戦禍による廃墟から立ち直った日本国民なら、理解してくれると思う」
◆◇打ち上げ直前、亡命した独「ロケットの父」に単独インタビュー◇◆
次のアポロ10号取材から、東京本社の本物の若い科学記者S君が加わってくれて、私も強力な相棒を得た安心感に浸ることができた。5月打ち上げの10号は、本命11号の「ドレス・リハーサル」。月周回軌道上でCMから切り離されたLMが月面まで15,000mの地点に接近し、11号着陸予定の「静かの海」をつぶさに偵察するというもの。月面着陸の一事を除けば、11号のミッションと寸分違わぬ離れ業だった。私たちはケネディ宇宙センターとヒューストン有人宇宙センターで10号の軌跡を追いかけた。
この打ち上げ直前、思いがけない収穫があった。第2次大戦中、ナチス・ドイツでV-2号ロケットを開発して、ロンドン市民たちを恐怖の底に沈めた後、敗戦直前に敵国アメリカに亡命して、アポロ計画に尽力したウエルナー・フォン・ブラウン博士に、発射台から遠からぬトレイラ―ハウスで単独インタビューする機会に恵まれたのだ。「ロケットの父」は、自らの運命の変転に複雑な思いがあったに違いない。S君の問いに答えての博士の言葉は, 意味深いものをのぞかせた。
「かつてドイツで軍事用ロケット開発に携わったのは、あくまで私の人生の脇道だった。今回、アポロ11号の生還時こそ、私の本当のVデー(第2次大戦での連合國軍の対独戦勝記念日)。月面着陸を機会に、私たち人類が一つの地球に住む兄弟だとの強い連帯感が生まれればよいのだが……」
10号の帰還後の空き時間は、私たちにとって11号打ち上げまでの2か月間の最後の「仕込み」期間だった。ここで、アメリカに不慣れなはずのS君が驚きの単独行動を演じてみせた。米大陸北東部のデラウエア州ドーバーの宇宙服メーカーを訪ね、地上にいながら、天上の飛行士気分を実感する宇宙服の「試着」をやってのけたのだった。それは世界中のアポロ取材陣の大きな狙い目だったもの。このルポルタージュは、白い宇宙服をまとったS君の写真4枚付きで、本紙に大々的に報じられた。
〈宇宙飛行士気取りで、そっと左足を出した。だが、思うように足が出ない。まるで、ヨチヨチ歩きの幼児に戻ったようなもどかしさ〉
無理もない。地上の6分の1の重力下で着る宇宙服は、酸素や水などの詰まった背箱を合わせると、地上での総重量は80kg余りにもなる。
〈重苦しさ、ぎこちなさ――それは“かぐや姫の故郷”をさ迷う甘い夢のひとかけらもなく、荒涼とした死の世界に挑む厳しさに満ちていた。でも、夜空に浮かぶ、研ぎ澄まされた三日月のように、身に染みる冷たさ、すがすがしさがあった〉
S君は, 地球を月面に持ち込む「小世界」とも言われる宇宙服の試着記をこんなふうに生き生きと描いた。
私は私で、ニューヨーク特派員本来の役回りの「アメリカ裏窓ウォッチャー」として、少しは自分自身の眼でこの世紀の大祭典の表裏を冷静に見据えたい、と柄になく武者ぶるいしていた。ほとんどの狂いもなく、スケジュール通りに科学技術の巨歩を進めるアポロ計画の単なる賛美者だけに甘んじたくない、との思いを膨らませていたのだ。当時の予算規模で320億ドル(60年代末のレートで約11兆円)の巨費を投じ、40万人の科学者・技術者を総動員し、長さ110m、重さ3,000トン、馬車300万台分の推力を持つというサターン5型ロケットで地上から40万kmほど離れた月面に人類代表を送り込もうとするメガ・プロジェクト。この怪物もどきに異国の若造が筆一本で挑もうというのだから、なにやらドンキホーテの趣ではある。
◆◇天上の新時代、地上のベトナム戦争、貧者の行進・・◇◆
二十世紀アメリカが手掛けた歴史的産物の一つは、マンハッタン計画だった。1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で「千の太陽」が一度に輝くような閃光をほとばしらせて、この世に「核の時代」を呼び込んだ。それはヒロシマ、ナガサキの悲劇を生み、それ以来、人類の頭上に「ダモクレスの剣」を吊り下げる恐怖をもたらすことになった。それから24年、アメリカは第2の歴史的産物として、他の天体である月面に初めて人間を送り込み、宇宙新時代を産み落とそうとしている。二度目の画期的大事業は人類にとって、一体どんな意味を持ち得るのだろうか。
私がこうした大命題に思いを馳せた一因に、ケネディ宇宙センターの地元紙の連日の報道があった。紙面はもちろん、アポロ11号打ち上げ関連の大小ニュースを詳細に伝える一方で、その陰に「肉はおろか、ハンバーガーさえ食べられない貧困者が郡内に7,000人もいる」という救貧キャンペーンを張っていた。当時、改めて社会の「影」に注目が及んだのは、アポロに象徴される天上の「光」のまばゆさとの対照のありようが際立っていたからだろう。月面にまで人間を送り込む科学技術の完璧さがあって、なぜ身近な人間の苦痛を和らげる術を備えられないのか。この疑問は、アメリカの国家政策の優先順位への疑念を生むことにもなった。
もう一つ、アポロ計画のはらむ怪物性は、そのころ猛り狂っていたベトナム戦争の遂行といった、悪しき国家権力のシンボルとして、小さな個人を圧倒する巨大マシーンを連想させる不幸もあった。当時のニューズウィーク誌は若者の声として「アポロ関係者は庶民の代表者ではない。それは、非常にすっきりしているものの、何か残酷な、アメリカの主軸部分の代表者と思われる」といったコメントを伝えていた。
かつてのアラモゴード砂漠での実験が産み落とした「核の鬼子」が壊滅的な最終兵器となって、人類を底知れぬ不安に落とし入れたように、アポロ11号の開く新時代も、人類をして、地上での幸せづくりを後回しにして、あてどもなく「宇宙の果て」にさ迷い出させる恐れはないのか。「宇宙戦争」などの悪夢が正夢になったら? 私はそんな生煮え気味の私見を記事にして、後に本紙に送稿している。
アポロ11号の打ち上げが近づくと、焼きつく南部の陽光の下、ケネディー宇宙センター一帯の熱気がエスカレートする中で、細かなミッション・スケジュールが次々に発表されだした。例えば、二ール・アームストロング船長の月面第1歩は、まず左足から、時刻は東部夏時間7月21日午前2時20分30秒といった具合。第1歩に先立ち、9段のハシゴを降りたら、5分間ほどの「準備運動」の時間を設けるのだともいう。
◆◇取材の舞台はヒューストンへ 興奮のプレスセンター◇◆
7月10日夜、いよいよ打ち上げの秒読みが始まった。14日には乗り組み3飛行士の最後の記者会見があった。アームストロング船長は「月面第1歩の時のメッセージは考えずみか」と聞かれて、「その時、どんな気持ちになって、どういうことを言いたくなるか、今から予想がつかない。こんなふうに言って、とたくさんの手紙は来ているが」とかわす。「恐怖感はないか」との問いには「それは何が起きるか分らない時に感じるものだが、われわれは考えられるあらゆる可能性について、できる準備はすべてやったから、恐怖感はない」と模範解答をしてみせた。これに先立ち、「無人探査機で観測できるのに、なぜ危険を冒して月に?」と尋ねられた際には「一番重要なのは、人間を月へ送り、世界の人たちに人類の偉大さを示すことだ」と胸を張った。
東部夏時間7月16日午前9時32分、アポロ11号はおなじみの轟音を響かせて、ケネディ宇宙センターから飛び立った。乗り組みはアームストロング船長はじめエドウィン・オルドリン、マイケル・コリンズ両飛行士の3人。この日、マーティン・ルーサー・キング牧師の創設した南部キリスト教指導会議の面々が打ち上げ場近くまで「貧者の行進」のデモをかけて、「天上より地上を」と訴えた。だが、一行は数十人規模にとどまり、人目を強く引き付けるまでには至らなかった。
アポロ11号の旅立ちを見送った後、取材の舞台は直ちにヒューストン有人宇宙センターに移動した。用意された広大な記者室は国際色豊かな記者団で埋まった。登録済み人数は3,000人ほどとか。デパートの特売場さながらの混み具合だ。 その一角の私たちのテーブルにはS君、私とワシントン支局からの援軍、それに現地で頼んだアシスタントのD嬢。彼女は地元の高校の理科教諭で、いかにもテキサスふうに大柄のうえに、態度は活発そのもの、長い髪はブロンドに輝いていた。
後で分かっていくのだが、彼女は私たちの大変な戦力になった。各社とも現地でアシスタントを頼んだが、宇宙船との専門用語による交信は、いくら母語とはいえ、アメリカ人なら誰にでも十分に理解できるものとは限らない。その点、私たちの理科教諭の理解力は抜群で、時には隣席の他社のアシスタントに教えを垂れるほど。そのうえ、人好きするブロンド・グラマーとあって、NASAの若いスタッフたちも、彼女には親切この上ない。公式配布になる前の発表資料なども、いち早く彼女の手に渡り、私たちは大助かりだった。
アポロ11号は予定通りの飛行を続け、月着陸船LMに乗り移ったアームストロング、オルドリン両飛行士は、月軌道周回の後に、司令船CMにコリンズ飛行士を残して連結を解き降下、月面の「静かな海」に着陸した。米中部夏時間7月20日午後3時17分40秒。アポロ計画発動の「起点」ともなった宇宙一番乗りの旧ソ連人工衛星スプートニク1号の地球周回から11年、ケネディ大統領の大号令から8年、「アメリカの公約」は予定表通りに果たされた。
記者室には、期せずしてワッーと歓声が炸裂し、拍手の嵐が続く。そして、当時はまだ常用だったタイプライターが機関銃の一斉射撃のように唸り声を上げ続けた。
◆◇トイレで書いた月面着陸成功の雑感記事◇◆
ただ、それからの「待ち時間」が6時間半もあった。その間、誰しも記者たちの考えたことは「人類、月に立つ」の歴史的原稿を一世一代の「名文」で飾りたい、ということ。「地球」「人類」「歴史」「世界」など、様々な「極大の用語」が頭の中を乱れ飛ぶ。しかし、その場の雰囲気はお祭り騒ぎで、とても神経を文章作成に集中できそうにない。私はたまらず記者室を抜け出し、近くのトイレの個室にこもったことだった。
世界中をジリジリと待たせた後の、1969年7月20日午後9時56分20秒、アームストロング船長が世界史上初の月面第1歩を記した。そして、あの歴史的メッセージを発した。
「個人にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」
リチャード・ニクソン大統領は深夜のホワイトハウスから、すかさず月面の2人の飛行士に電話を入れた。
「ハロー、二―ルとバズ(オルドリンの愛称)。これは歴史的な通話だ。なぜなら、君たちが成し遂げたことは天上を人間世界の一部にしたから。すべてのアメリカ人にとって誇りであり、世界の人類にとっても偉大な祝宴だ」
2人の飛行士は月面で写真撮影をし、星条旗を立て、地震計などを設置し、岩石のサンプル採取など、決められた作業をこなした。そして、「月の表面は粉のよう。楽に歩き回れる。辺りはクレーターばかり」と地上へ周囲の観察結果を報告してきた。
テレビ中継を見守った世界中の人々の興奮、感動は言うまでもなかった。本紙の識者座談会では、日本学術会議宇宙空間研究特別委員長の宮地政司氏が以下の言葉を残している。
「ああ、月に着いた。なんとも言えない感動が心の底から沸き上がってきた。他の天体に人間が立つことのほかに、秒を刻むように正確にことを運ぶ組織工学の成果を大きく評価したい」
社会面トップには、こんな書き出しの私の雑感記事が載っていた。
〈新しい歴史の生まれる陣痛は、こんなにも重苦しく、切ないものなのか。二人の男が四十万キロかなたの“別世界”でふらつく足を踏みしめて未来に分け入っていき、三十数億の人間は過去の重みに沈む地上で息をひそめ続けた。祈り、不安、信じ難い思い……胸を締め付けられ通しの二時間四十分(月面活動時間)。新しい“歴史の赤ん坊”が全世界の見守る中で産声を上げた〉
今、読み返すと、当初の「志」を置き忘れ、その場の熱気に煽られた、赤面の文章だが、少なくとも前半部分はトイレの中の産物に違いなかった。
ヒューストン有人宇宙センター界隈のエクサイトぶりは、とりわけすごかった。モーテルのプールには若者たちが着衣のまま飛び込んだ。私の部屋には、いつの間に侵入したのか、不慣れなアルコールに酔いつぶれたらしく、赤く上気した顔の見知らぬ少女が床の上に寝込んでいた。記者室から疲れて引き揚げてきた私は「密室の珍事」にすっかり慌ててしまった。
大役を果たした2人の飛行士を乗せて、LMは21日午後零時54分、エンジンを噴かし月面を離れて上昇、月周回軌道上に待つCMとドッキングした後、3飛行士揃って一路、地上への帰途に就いた。
その間にも、NASA当局は毎日、定時記者会見を開き、アポロ11号との交信の模様を説明した。記者団はヤマ場を過ぎて、興味が薄れたのか、出席者が10人を割ることもあった。ある時、報道官がその日の地上ニュースとして宇宙船に届けたと説明した項目には、ベトナム戦争の戦闘経過が抜けていた。 私が「今、地上では大きなニュースなのに、なぜ?」と質すと、アメリカ人記者たちが「そうだ!」と一斉に同調の叫びを入れた。天上の栄光覚めやらぬ時点でも、地上の苦渋が彼らの心に強くわだかまっていることを物語る場面だった。
現地時間24日午前、中部太平洋上にアポロ11号は無事着水、空母ホーネット艦上でニクソン大統領の出迎えを受けた。一方、私たち記者の一群はヒューストン有人宇宙センター近くのエルラゴの住宅街に飛行士たちの留守宅を訪ねた。着水後2時間半ほどして、赤レンガの家の玄関からジャネット・アームストロング夫人が出てきた。白いブラウスに赤いスカート、お祝いの勝負服だろうか。その「第1声」は心地よく響くものだった。
「夫が月を踏んで帰ってきた。とても、この世のこととは思えない気持ちよ」
ナッソーベイのオルドリン家では、ジョーン夫人が勢いよくシャンパンの瓶の栓を抜いて、記者団や隣人たちに振る舞った。思わず私は日本での祝い事を連想しながら、祝杯の輪に加わった。
◆◇あれから45年、「明」と「暗」は今も◇◆
アポロ計画の大団円を迎えて、ワシントン・ポスト紙は「アメリカ国民は第2次世界大戦の勝利で大きな自信をつけたが、スプートニク・ショックやベトナム戦争で深い挫折感を味わった。今、再生の機会をつかんだ」と書いて、明るい自賛の声を上げた。が、同紙の見方は少々、甘すぎたようだ。間もなく起きる西海岸の惨事を全く予感していなかった、と言えるのではないか。
アポロ11号帰還から半月余りの8月9日、ハリウッドの高級住宅街で妊娠の身の有名女優シャロン・テートら5人が惨殺される事件が発生した。カルト指導者チャールズ・マンソン一派の起こした猟奇事件で、遺体は天井から吊り下げられ、玄関には「ブタ」の血文字が書きなぐられてあった。私が本社に送稿した速報のリードには「アポロ11号で代表される繁栄と、その裏側にひそむ貧困と狂気――。この事件は断絶に悩むアメリカ社会の深い病根をのぞかせた」というフレーズが受け手のデスクによって書き加えられていた。太平洋をいち早く越えたショック・ウェーブの大きさが分かる。
全米的なスキャンダルは11号の月面着陸と同じ日にも起きていた。アポロ計画にゴーの指令を発したケネディ大統領の末弟エドワード・ケネディ上院議員がマサチューセッツ州の避暑地で深夜にドライブ中、車ごと海に転落、同乗の若い女性を水死させた。上院議員は独り事故現場を離れたうえ、警察への迅速な通報を怠ったとして、大きな疑惑を呼んだ。気の早い向きは「ケネディ王朝崩壊か」と唱える始末だった。
「明」と「暗」と。人類代表が月面に第1歩を刻んだことによる「大飛躍」は科学技術面の外にも、どれだけ及んだのだろうか。地上の人間社会は相変わらず、暗部をさらし続けているように見える。すでに45年前の遠景に退いたアポロ11号の快挙は、そうした根深く鮮明なコントラストを改めて浮かび上がらせる皮肉な役割を演じたように思われてならない。
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私は1971年晩春まで3年間のニューヨーク支局在任中、その後も12号から14号までカバーし、結局、アポロ宇宙船の打ち上げには通算6回も付き合うことになった。その間、69年11月には首都ワシントンに50万人近い参加者を集めて史上最大級のベトナム反戦集会が開かれるなど、アメリカ社会は息長い人種騒動も絡ませながら、地上の険しさを色濃いものにしていった。
最後に、私たちの有力な助っ人になってくれたテキサス娘D嬢のその後も報告しなければならない。世紀のイベントでアシスタントを務めて、報道の仕事に魅せられたのか、やがて彼女はあっさりと職場を転換、生え抜きの高校教諭の職を辞して、ジャーナリズムの世界に入った。そして、ある時、アフリカにまで取材の旅に出た際に、運悪く暴徒に襲われ、彼女らしく健気に抵抗したのが裏目に出て、不慮の死を遂げた、と伝え聞いた。アポロ全盛時代の記憶の中で、私たちの心痛む悲話である。