取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
情報戦 うら・おもて(パート3) 太平洋戦の末期 ソ連が日本に極秘情報、なぜ?(村上 吉男)2014年8月
米国が第2次大戦の前から日本の外交通信の傍受を行っていたことは、このシリーズですでに触れた。戦後、日米両国が同盟国となったあとも、青森県の在日米軍・三沢基地で日本の暗号通信を傍受してきただけでなく、いまも続行しているとみられている。米国家安全保障局(NSA)の極秘情報を大量に持ち出した米中央情報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が三沢基地で2009年から2011年まで働いていたと述べているほか、同氏は日本の在外公館に対してもさまざまな方法により、盗聴が行われてきたと明らかにしている。なによりも、米オバマ政権は、日本政府に対して通信傍受や盗聴はしていないとは公に言明していないからである。
◆◇漏れていた米軍の最高機密“フィリピン奪回作戦” 発信源は?◇◆
ところで、オーストラリアが戦時中、日本の外交通信を秘かに傍受、解読し、戦争末期にとてつもない情報をキャッチしていたことはあまり知られていない。オーストラリアは、米英両国が大戦半ばの1943年に始めたソ連(当時)情報網に対する全世界的な盗聴作戦「ヴェノナ計画」に加わり、ソ連と日本を中心にアジア地域における情報通信の傍受と暗号解読を受け持っていたからだ。米英両国は、すでにこの頃から、戦後世界のあり方について意見を交換し、ソ連の極秘情報網を通じてソ連共産主義の影響が西側陣営に侵透してくることに警戒の念を強めていたのである。
日本外国特派員協会(FCCJ)の会員で、友人のグレゴリー・クラークさんは、多摩大学の元学長としても広く知られているが、元はオーストラリアの外交官。終戦後、外務官僚として当時の秘密文書を見られる立場にあったという。そのクラークさんによると、米軍の対日戦が最後の局面にはいった1944年の秋、マッカーサー連合軍司令官率いる米主力部隊がフィリピンを日本軍から奪回する作戦を始める日程が極秘で米国から同盟国のオーストラリアに伝えられた。軍事作戦の開始日程は、極秘中の極秘。オーストラリア政府および軍部の最高幹部のみが知る最高度の機密情報であった。
◆◇ハルビンからの至急報に驚く◇◆
ところが44年10月のある日、日本の外交通信を傍受していたオーストラリア情報部の暗号解読班がハルビンの日本総領事館から東京の外務省に送信された暗号の至急報を傍受して解読したところ、それは仰天するような内容だった。
ハルビンからの至急報は、「ソ連側から得た信頼すべき極秘情報」だとして、「米軍が間もなくフィリピン奪回作戦を開始する」と東京に伝えていた。ハルビンは中国の東北部、当時、日本がつくった満洲国の特別市だった。いまの中国では、黒龍江省の省都として発展している。米軍の極秘情報がなぜ、ソ連の手に渡ったのか。なぜ、それが満洲のハルビンなどから日本側に漏れることになったのか。米国と手をとりあってナチス・ドイツと戦っていたソ連がなぜ、米国の極秘軍事情報を敵国の日本に知らせようとしているのか。オーストラリア政府にとっては、信じ難い出来事だった。
◆◇オーストラリア外相の秘書官がソ連スパイ?!◇◆
クラークさんによると、ソ連は当時、10人近い情報部員をオーストラリアに侵透させていた。中には、首都キャンベラでオーストラリア政府の最上層部に食い込んでいたスパイもいたという。その一人は、当時のオーストラリア外相の秘書官になっていたのだ。その秘書官が入手した米軍のフィリピン奪回作戦の情報は、キャンベラのソ連大使館から直接ハルビンのソ連総領事館に送信され、それが同地の日本総領事館に伝えられたものだった。このほか、オーストラリア最大の都市、シドニーでソ連国営タス通信の支局長に成りすましていたソ連情報部員の手に渡り、モスクワに送信された情報もあった。これら米軍の情報はモスクワにとって得がたいほどの貴重なものだった。その理由は――。
この時期、ヨーロッパ戦線でドイツの敗北は濃厚となり、降伏は時間の問題となりつつあった。そうなると、米国は全戦力を対日戦に振り向け、激しい攻勢によって日本の敗北が早まる。ソ連にとって、それは困るのだ。日本が降伏する前に対日戦に参戦したい。参戦して、米英と並んで戦勝国の一員となり、日露戦争で日本に奪われたサハリン(日本名=樺太)南部や千島列島を取り戻したい。あわよくば、北海道の北半分ぐらいをソ連に割譲させたいと目論んでいた。ソ連は、日本軍にできるだけ長く戦ってもらい、対日戦の準備を整える時間を稼ぎたかったのだ。どうすれば、日本軍の抵抗を長引かせることができるのか。
◆◇ソ連の動きを見誤った日本◇◆
そこへ飛び込んできたのが、オーストラリアに忍び込ませていたソ連スパイからの極秘情報だった。そこには、対日戦の勝利に欠かせない米軍のフィリピン奪回作戦の規模や時期が記されていた。これを日本側に極秘裏に知らせ、フィリピンを占領していた日本軍が米軍の攻撃に十分対抗できるように準備させる。その間にソ連は大部隊をヨーロッパ戦線から極東に移動させて、日本攻撃の準備を急ぐ。これこそ、ソ連が米側の極秘情報を日本に知らせた理由だったのだ。翌45年5月にドイツが降伏したあと、フィリピンは米軍に奪回され、対日戦は急速に進んだ。米軍は沖縄を制圧したあと、同年8月6日には広島に原爆を投下、そして9日には長崎にも投下した。8月15日、日本はポツダム宣言を受託して降伏した。ソ連軍が、旧満州に攻め込んできたのは長崎に原爆が投下される10時間ほど前、日本が降伏する僅か1週間前だった。
ソ連からの情報が日本軍の抵抗をどれだけ長引かせることができたかはわからない。ただ、米軍がフィリピンのレイテ島から奪回作戦を開始するのを予期していたように、日本軍は同島の陸軍を大増強し、多数の海軍艦船を同海域に派遣したことは事実である。しかし、それよりも、日本がソ連の動きを見誤った影響の方が大きいのではないか。ソ連からの米軍情報は、ハルビンからだけでなく、モスクワなどからもその当時、折に触れ、日本側に通報されはじめていた。その一方で、日本攻撃を視野に入れていたソ連は、すでに44年春、日ソ間に締結されていた中立条約を1年後の45年4月をもって延長しないと日本に通告していたのである。にもかかわらず、日本側には、日ソ関係を敵対的ではないと見る向きがあり、モスクワ駐在の日本大使を通じて、米英など連合国への和平調停をソ連に頼み込んでいたのだった。日本のそんな望みは45年8月9日、宣戦布告と同時に旧満州に大攻勢をかけてきたソ連軍によって無残に断たれた。
日本が降伏したあと、ソ連は、サハリン南部や全千島列島だけでなく、日本固有の領土である歯舞や色丹など北方領土まで占拠し、自国領とした。のみならず、マッカーサー連合軍司令部に対し、北海道の釧路と留萌を結ぶ線の北半分を求めようとした。しかし、北海道については米政府がこれを一蹴、東西ドイツや南北朝鮮のように、日本が分断されることはなかった。
◆◇対ソ諜報網「ヴェノナ計画」が最優先、スパイ逮捕はお預け?◇◆
以上みてきたように、太平洋戦争の末期に、日本に突然攻め込んできたソ連は、その数か月前から米軍の極秘情報を、こともあろうに敵国の日本に通報していた。まったく信じられないようなことが行われていたのだ。戦争の帰趨に影響を及ぼすことはなかったかもしれない。しかし、ソ連が日本に流した極秘情報の発信地が自国だったことを知ったオーストラリア政府の驚きと無念さは、察するにあまりあろう。
そもそも、オーストラリアがアジア地域における日ソ両国の情報通信を傍受しはじめたのは、先に触れた米英主導の「ヴェノナ計画」での役割分担からだった。全世界規模で大々的なソ連情報通信網の傍受を始めたことによって、米英両国は、多数のソ連情報部員が各国に配置され、活発なスパイ活動を行っていることを知った。オーストラリアでもソ連情報部員が活動していることは、彼らとソ連本国との活発な情報のやりとりを日常的に通信傍受し、解読していたのだから、ある程度は把握していた。しかし、外相秘書官がソ連のスパイだと特定できた時には米軍のフィリピン作戦はほぼ終わっていた。
かりに、スパイを突き止めていたとしても、それを逮捕したり、監禁したりすることはできなかっただろう。1943年に米陸軍信号情報部によって極秘裏に始められた対ソ盗聴活動の「ヴェノナ計画」は、米政府・軍部の中でも最高度の機密事項にされていたもので、時のルーズベルト大統領にさえ、その存在は知らされていなかった。ホワイトハウスから漏れることを警戒したのだ。これほど極秘にされたプロジェクトは例をみないと言えるかもしれない。
オーストラリア政府は、ソ連スパイが外相秘書官になりすましていることを突き止めたあとも、その秘書官を同政府の一存で逮捕するわけにはいかなかった。逮捕などすると、ソ連がオーストラリアによる通信傍受と解読に気付くおそれがあった。少しでも怪しいと思ったら、ソ連側は警戒して暗号システムを全面改変したに違いない。改変されると、IT技術などのない当時では、ソ連の新たな暗号システムの解読には数か月、いやそれ以上の年月を要することになるからだ。
実際、米国にとっては、オーストラリアに数人のソ連スパイがいることなどは大きな問題ではなかったようだ。米国内に、とてつもないソ連のスパイ網があることが次第に明らかとなり、その活動を追求していくことの方がはるかに重要だった。
米連邦捜査局(FBI) やCIA にも協力を依頼して追求していくうちに、ソ連が原爆の製造法に狙いを定めて情報収集に全力を注いでいることを米側は確信した。オーストラリアの“小物スパイ”などのために、「ヴェノナ計画」の情報収集力をソ連に察知される危険は絶対に避けたかったのだ。1953年、ソ連の原爆スパイとして米国で処刑されたローゼンバーグ夫妻は、「ヴェノナ計画」の網にひっかかった最大の大物である。そのほか、アルジャ―・ヒス、キム・フィルビーなど、有名なソ連のスパイはことごとく、超極秘の「ヴェノナ計画」によって炙り出されたと言われている。
◆◇「5つの目」から逃れられない? いまも続く情報戦◇◆
同計画は1980年に解消されたが、いわゆる「エシュロン」グループと呼ばれる米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド5か国による全世界的な情報収集・解読網はその後も引き続き活動を続けている。先にあげたエドワード・スノーデン氏は、「エシュロン」のことが、内部では「ファイブ・アイズ」と呼ばれていることを明らかにし、いまや、「ファイブ・アイズが世界中に張り巡らした秘密の監視システムから逃れる術は何ひとつありません」と言い切っている(『暴露―スノーデンが私に託したファイル』グレン・グリーンウォルド著、新潮社)。
ところで、オーストラリア政府および軍部に食い込んでいたソ連のスパイは、その後どうなったのだろうか。米英、オーストラリアなどによる極秘のソ連情報収集網が第2次大戦後もソ連に察知されることを避けるため、彼らは逮捕も国外追放もされなかった。そのうちに彼らの方で任期が来て帰国したり、外交特権で逮捕されない外交官の地位に就いたり、次の任地に赴いたりして行った。その後のオーストラリアでは、両国の新たなメンバーたちによる新しい情報戦が、今日も展開されていることだろう。
(元朝日新聞記者 2014年8月記)