ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

戦後政治史の生き字引・辻トシ子さん ゴッドマザーは健在なり(古賀 攻)2014年8月

女性を怪物にたとえるのは失礼極まりないが、もはや女帝とか女傑とかの、ありきたりな形容ではすまないスケールの人である。


終戦直後、鳩山自由党の結党資金を提供した「政界の黒幕」辻嘉六のひとり娘にして、自らも男社会の永田町で一目置かれたスーパーレディー。その比類なき人脈を生かして、96歳のいまも快活に企業のよろず相談事を請け負っている。辻トシ子さん。大正女(7年2月生まれ)の驚くべき人間力だ。


私が初めて辻さんを取材したのは、もう21年前になる。霞が関官僚の不祥事が世の中を騒がせていた。社会部にいた私は、辻さんが「大蔵省のゴッドマザー」とうわさされているのを聞きつけ、大蔵官僚との「不透明な関係」を描こうと、下調べのうえアポなしの突撃取材を試みた。


米国大使館の筋向かい。自転車会館2号館の9階に、1961年から続く辻さんの事務所「三十六会(さとろうかい)」があった。1号館に宏池会が派閥事務所を構えていたため、「キーちゃん(宮沢喜一元首相)の紹介で」入居したという。


「何が聞きたいの?」。辻さんはあっさりと取材に応じた。後に「大蔵省のタニマチ」と書いた私の記事は、決して愉快な内容ではなかったはずだが、辻さんは文句を言うでもなく、むしろ私の方が不思議な魅力を感じて時折、辻事務所に顔を出すようになった。


辻さんが石川県七尾の衆院議員、益谷秀次の秘書になったのは1950年、32歳の時。吉田茂の側近だった益谷は、衆院議長、副総理、自民党幹事長を歴任し、裏方を切り盛りする辻さんの存在感も高まる。


吉田が大磯の私邸に取り巻きを集める時、秘書の中で辻さんだけが同席を許された。池田勇人や佐藤栄作ら吉田の門下生たちは当然のように辻さんを特別扱いした。


親子2代で政界の舞台裏に通じていたことが強みだったのだろう。三十六会はその延長で発足した。いまでいう総合コンサルタントである。


敗戦国日本が護送船団方式で国力を回復する過程にあって、辻さんのような人たちが政官財の潤滑油として動いた。いい悪いではなく、そんな時代を経ていまがある。


四国の金刀比羅宮を訪ねた時、長い石段の最上部に「辻嘉六」と刻まれた古い石柱があるのを偶然見つけた。後日、辻さんに訳を聞いた。


「オヤジはね、日露戦争の直前に土建屋として満州に渡ったのよ。渡航前、金比羅さんをお参りし、無事帰国したというので相当なお金を寄進したそうよ。満州ではスパイのような仕事をして、児玉源太郎にかわいがられ、児玉の紹介で政友会の原敬と親しくなったんだって」


近代史の著名人が、父親のエピソードに付随してぽんぽん飛び出すのが辻さんの話の醍醐味だ。


冒頭で怪物と書いたが、実際にそう言った人がいる。村山富市元首相だ。2007年、辻さんの米寿を祝う会で「平成の怪物」と指摘して会場を沸かせた。その村山さんが首相当時、6歳年長の辻さんに「社会党から選挙に出ないか」と誘ったことがあるという。本当かどうか、大分市にいる村山さんに電話を入れて確かめたら、「よう覚えちょらん」という答えが返ってきた。


東京はいま、虎ノ門ヒルズを核にして再開発の波に洗われている。自転車会館も解体が決まり、辻事務所は昨年末、退去を余儀なくされた。


それでも辻さんは週に数日、官僚OBや企業人との昼食会を欠かさない。さすがに歩行がいくらか不自由そうだが、抜群の記憶力は健在だ。まだまだ聞き出したいことがある。


(こが・こう 毎日新聞社編集編成局次長)

前へ 2024年03月 次へ
25
26
27
28
29
2
3
4
5
9
10
11
12
16
17
20
23
24
30
31
1
2
3
4
5
6
ページのTOPへ