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G8首脳たちの素顔―サミット40年の取材秘話(玉置 和宏)2014年7月

6月にソチで開催される予定だった「G8」がウクライナ紛争で中止となった。ロシアが除外され、その代わりブリュセルで略式G7が開かれた。発足以来40年、異例の事態である。法と正義、統治、策謀、裏切り、分裂などあらゆる航跡を残して、G8は一気に沈没に向かうのか。


◆◇イラク戦争でG8分裂◇◆


G8崩壊の危機は今回が初めてではない。サミット会合がまだ定例化せず体制も脆弱な時期には、いつ中止してもおかしくない時が何度かあった。だが深刻な状況になったのは2003年の仏エビアン・サミットだ。イラク戦争を巡って、米国連合(英国、日本、イタリア)とこれに反対する仏連合(ドイツ、ロシア、カナダ)が、仏エビアン・サミットで激しく対立したのである。G・W・ブッシュ(米大統領)は、イラク戦争での「勝利宣言」をお土産にしてエビアンに乗り込んできた。随行してきたコンドラーサ・ライス(米補佐官=安全保障担当)は「フランスを罰する。ドイツは無視する」と我々記者団に言い放った。


イラク戦争で「勝利宣言」をしたばかりのブッシュは、よほど高揚していたのだろう。ホテル中庭で出迎えるホストのシラク(仏大統領)との握手をふりほどき、挙げ句の果て、わずかな滞在時間で退出した。ボイコット同然である。固い握手を振りほどく超大国のトップを眼前にして、G8の亀裂が容易ならぬ段階にあるということを知ったほどである。


面目をつぶされたシラクは最後の会見で憮然とした表情で、「私はブッシュにこう言ってやりました。『戦争は一カ国でも始められるが、終わらせるにはそうはいかない。それが戦争の現実だ』とね」。右の耳から聞こえる抑制のきいたシラクの仏語が、英語になって左耳のイヤホーンから聞こえてきた時、なるほど、その通りだと感得したものだ。現在のイラクの状況を見るにつけ、シラクの言葉の重さと公園の一角にある小劇場の会見場を思い出す。


時にピエロも出現する。日本の美人テレビキャスターが手を挙げたのだ。「あなたはブッシュ大統領をどう思いますか」。シラクはいったん指名したものの、質問を聞いて落胆した表情で無視した(答えなかったのだ)。


小泉純一郎(首相)はブレア(英首相)とともに、ブッシュのプードルと化していた。これも楽ではないのだが。それに比べて、もう一人の「有志国」の頭領ベルルスコーニ(伊首相)は泰然自若としていた。さすが古代ローマのDNAを持っている政治家は格が違うと感心した。というより、オバマ(米大統領)を「日焼けした人」と言ってのける大人物が身に備わった風格のなす技かもしれない。小泉のためにちょっと弁解しよう。当初ドイツのメルケルは、米国組に入ると踏んでいた。ところが、フランスに付いたことでショックを受けたという。だが情報不足は否めない。


◆◇東京にサッチャー登場す◇◆


1979年6月、我が国初の大型国際会議、東京サミット(第5回先進国首脳会議)に向けて、各新聞社は最大の取材陣で臨んだ。当時日銀クラブキャップだったが、そのメンバーに入っていない。担当デスクに抗議すると、「何を寝ぼけたことを言っているんだ、このばか者!」と取りつくしまもない。頭に来ていたら5分位して、「田舎の村長さん」のような人格円満部長から電話があり、「君には取材班全体のサブキャップをやってもらいたい」という。ここから我がサミットおたくが始まった。


直接G7/G8を現地で取材したのは、現役を引退した2010年までの36回中、ほぼ半分近い17回である。多分、取材記者の中では異例な長さかもしれない。ライバル(?)がいた。ルーマニアで新聞を経営していた老夫妻で好人物だったが、確か03年のエビアンまで来ていたが、その後顔を見せなくなった。


無理矢理潜り込んだサミット取材班だったが、仕事が全く与えられず1行も書けない。仕方なくシャーロックホームズのように徹底、微細に観察することを本務とした。収穫は就任したばかりのサッチャー(英首相)の美貌にじかに触れたことだ。彼女はいまでいう新自由主義を披露、戦後ケインズ的社民主義に翻弄されていた首脳たちに衝撃を与えた。サッチャーイズムは以後、12年間にわたり、G7の場で経済構造改革のメーンストリームを形成して、首脳たちに影響を与え続けたのである。


衝撃といえば、日本が務めた最初のホストのサミットが、日本外交に与えた震度は巨大震災級だったといっていい。勝負に例えれば、惨敗である。多少運も悪かったのは、大平正芳(首相)という調整型宰相がホストだったからか。そもそもこのサミットは世界経済の大転換の時代に対応するために、旧弊な官僚主義からの脱却を狙って、1975年ジスカールデスタン(仏大統領)が賢人シュミット(西独首相)と諮って立ち上げたものだ。その創設者の張本人が東京サミットに乗り込み、「石油の国別割り当て」という厳しいカードをいきなり突きつけたのだからたまらない。首脳会談の席上は議長大平の統制がきかず、まるで学級崩壊のようだったとされる。


外務官僚たちはこの日に無策で臨んだのではない。むしろ日本人的なきめの細かさで、各国の事務当局と詳細な調整を続けて、大平を補佐すべき会談の筋を組みたてていた。その結果、長期的な「国別石油割り当て」という劇薬はテーブルに乗らないという確信を抱くに至ったという。万が一持ち出されても、反対していた米国と共闘してEC側と対抗すれば実現しないだろう、そう読んでいた。だが会議2日目の朝、東京の仏大使館に密かに集まった仏米英独の4か国首脳は、1985年までの国別割り当て量を決定するという奇襲作戦で合意していたのである。


◆◇米国の裏切りと省エネ成功◇◆


「カーター(米大統領)に裏切られた」。官僚陣は騒然となった。日本への割り当て1日わずか540万バーレル。これは現状の年間輸入レベルでしかない。「これでは政権が持たない」。大平周辺も俄然色めき立った。経済官僚らは経済中期7カ年計画を持ち出して700万バーレルを主張、必死の巻き返しを図った。米国の口添えもあり、最後は690万~630万バーレルで何とか決着させた。いや、それで勘弁してもらったというのが正しい。


この「米国の寝返り事件」という不甲斐ない結果は、日本外交にとって以後、猛省の教科書となった。過大な米国依存外交とともに、情報収集力の不足は決定的であった。第1回の東京サミットは座敷を貸しただけという、自虐的な評価も出てくるほどであったのである。


「禍福はあざなえる縄のごとし」という。驚いたことに、あれほど大騒ぎした1985年の石油輸入量は、実際は400万バーレルにも届かない382万バーレルだった。官民挙げての省エネ対策が効を奏し、石油に大きく依存しないエネルギー社会の構築、産業界がいう「乾いた雑巾をまだしぼる」体制作りが成功したのである。EC・米の仕掛けた「日本へのエネルギー包囲作戦」は、逆説的な成果を生んだのだ。ちなみに、現在でも500万バーレルそこそこだが、こちらは経済成長鈍化が主因だろう。


このサミットで霞が関官僚は、深刻な海外との人脈の欠如を痛感した。以後、各国の名門大学への大学院留学が意図的に始まったのは、これが契機といっていい。その直接的なきっかけは、フランス官僚が持ち歩いていたペーパーを、ENA(仏国立行政学院)で同級だった通産官僚が見つけて重要な情報を得たという事実だった。数少ないフランスとの人脈だったが、これで貴重な情報を得たとされたからである。


◆◇サッチャーと森嶋通夫◇◆


東京サミットの翌年、私は部長に頼み込んで、サッチャー思想に影響を与えたとされるハイエク(ノーベル経済学賞受賞)が教鞭を取っていたロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)に「遊学」させていただいた。ハイエク自身はすでにフリードマン(同受賞)のいたシカゴ大学に移り、LSEでは森嶋通夫(教授)が大学院の選考委員だった。「英語はできますか」「はい」。人生最大の虚偽申告と反省している。「遊学の条件」は休暇などを利用して随時原稿を送ることだったが、英国の出入国が厳しいので「欧州移動特派員」という「お墨付き」をいただいた。時まさに欧州との自動車摩擦の真っ只中で、EC本部、自動車メーカーなど大陸との往来と取材に役立った。


このカレッジは経済学、法学、国際関係の3学科のみと小ぶりだが、社会科学部門では英国はおろか欧州でもトップの評価を得ている名門だった。ノーベル経済学賞も多数の学者が受賞しており、学生のプライドも高い。そのころから森嶋は現地でもノーベル賞の常連候補として秋になると、その名前が取りざたされていた。


当時LSEでは「エコノミクスⅡ」という講義と演習を担当していた。私のチューターはサーリー(教授)という温和な教授で、奥さんは日本人だったが、これも森嶋の紹介だった。マスコミ嫌いの学者という日本で聞いてきた評判とは逆に、学ぼうという意欲のある記者には、親身なサポートをしてくれるという一面もあった。もしノーベル賞を受賞したら、その時は私が評伝を書くことになっていたが、残念ながらその日は来なかった。2004年7月、森嶋が永久の旅路に出たとき、コラム「酸いも辛いも」で「サッチャーと森嶋通夫」と題する記事を掲載した。少し長いが一部抜粋する。


「ノーベル経済学賞ほど時代に敏感な賞はない。独断と偏見でいうなら新自由主義という経済思想がもう少し後の時代に世界を席巻したのなら、森嶋さんはノーベル賞を受賞したかもしれない。だがハイエク、フリードマンという新自由主義の思潮が急速に拡大しながら東西冷戦が終わった。経済のグローバリゼーションという新時代が教授を追い越したのではないか」(7・25付け朝刊)。


◆◇プラド美術館の「門前の小僧」◇◆


いま思うと、英国「遊学」のメリットは計り知れなかったが、夏休みを過ごした一カ月余のマドリード滞在が、その後の私の人生を豊かにしてくれた。それは泰西の絵画である。7~8月のマドリードは日中、誰一人として歩く人がいないほど暑い。滞在していた安ホテルには冷房がなく、近くの当時無料だったプラド美術館でやむなく「避暑」、そのうちに絵画にど素人だった私は「門前の小僧」へと成長するのである。


重厚な18世紀の建物の中でベラスケス、ルーベンス、ゴヤ、エル・グレコなど、まばゆいばかりの大家と対話する幸せに恵まれた。スペインはフランコ(総統)が亡くなってまだ4年、観光客も少なく、館内はがらがらである。


LSEは幸いなことに、ロンドン都心に位置していた。東にフリートストリートを行くと毎日新聞の支局があり、西のコベントガーデンを抜けるとトラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリーだ。ここに講義のあと通うほどになったのは、プラドの「お経効果」による。英国絵画は何といっても漱石の作品にもあるターナーだろうが、これを理解するには多少の時間と想像力が必要だ。それに比べてイングランドの農村を画題にしたコンスタブルの風景画は素人にも分かりいい。図画の教科書のような絵だった。


そんなことはサミット取材に関係ないではないかと叱られるかもしれない。大ありである。実は、サミットに行く楽しみはこれに付随する美術館巡りという、もうひとつの喜びがあったからである。このサミット道楽は絵画と離れて語るわけにはいかない。


例えば2006年のロシア最初のサミットは、ホストであるプーチンの出身地サンクトぺテルブルクであった。ここにはエルミタージュ美術館、ロシア美術館という世界レベルの超一級ミュージアムがある。取材意欲の半分は、この絵画をこの目で見ることができるという大きな期待にある。幸いサミット取材記者には、これら美術館は無料で優先入館だった。つまり身体検査なしである。英語の通訳を雇い、二度鑑賞した。ここの美術館はレオナルド・ダビンチの「聖母もの」が数点あって人気を集めているが、私のお気に入りはやはりレンブラントの「放蕩息子の帰還」である。しばらく動けなかった。


◆◇中曽根「割り込み」事件◇◆


帰国して2年後の1983年、米本土での初のサミットは古都ウイリアムズバーグである。ここにレーガン(米大統領)、サッチャー、中曽根康弘(首相)という新自由主義トリオの面々が顔をそろえた。特派員団のキャップとして中曽根に随行、勇躍現地に乗り込んだ。


このサミットは後に、旧ソ連の崩壊を促した軍事的な意味でも戦略的な会合として位置づけられているが、裏舞台でもある契機となった。キャピトル(議事堂)から出てきた首脳たちはホストを中心に集合写真で一列に並ぶ。その立ち位置は国の格である。ホストのレーガンは左のサッチャーと話しながらあと4、5メートルぐらいで停止線に並ぶというその時だ。中曽根が後ろから一瞬、両者の間に身体を滑り込ませ、レーガンの左隣に割り込んでいるではないか。見ていた記者団から笑いが起こった。それより呆気にとられたサッチャーの表情が印象的だった。以後、国家元首(大統領)優遇、政府代表(首相)冷遇となる。それに就任歴をプラスした外交儀礼(プロトコル)という名の米仏の陰謀だろう。「日替わり定食」のような1年交代の日本の首相が常にEU委員長並みに左右の末席を汚している理由の1つはここにある。


割り込んだ中曽根をあえて弁護すれば記者団が笑ったのは、その健気で悲壮な意気に何かを感じとったからであろう。「首相もやるじゃないか」というもので、少なくとも筆者はそうだった。風呂場にビニールでくるんだソニーのテレコを持ち込み、英会話の猛練習をして、この日に備えたことを本人から聞いていたからである。


これを書いていて思い出した悔しい出来事がある。2010年カナダのムスコカのサミットで、話しかけてくる各国首脳から逃げ回っていたように見えた菅直人(首相)のことだ。ご本人は英語と外人は苦手だったらしいが、四国八十八か所の霊場を巡礼するくらいの強い決意で英語と外交マナーを勉強して首脳外交に臨んでほしかった。見ている新聞記者に、他人事ながら恥ずかしいと思わせては国のリーダーとしてはおしまいだ。


◆◇際立った中曽根の存在感◇◆


首相個人代表(シェルパ)を1996、97年の2度務めた小倉和夫(国際交流基金理事長)は、「最も印象に残ったサミットの第一には1983年のウイリアムズバーグを挙げる」と断言する。かつてサミットに深く関わった外交官の評価だが、私も直接取材した記者としては同感だ。この場合、二つの面からの分析が必要だろう。第一は中曽根の資質による存在感が、これまでの日本の首相と比較して格段に大きかったと海外の評価を受けたことだ。意見を堂々と開陳し、これまでの日本の首相と風景が全く違うと各首脳たちの共感を得たのであろう。


第二は「強いアメリカ」を標榜したレーガン大統領が、旧ソ連の「最後のあがき」とも思えるミサイル配備に毅然たる態度をとったことがソ連の冷戦敗退を早めたという評価が、のちに固まったことである。


少し先に飛ぶが、2004年の米東海岸のシーアイランドで開かれたサミットのことだ。成田からアトランタ空港に着いた時、新聞の大見出しにぶつかった。「偉大な伝導師死去」とある。あのレーガンが亡くなったのだ。ウイリアムズバーグから数百キロキロ南に下った東海岸の地で、またレーガンの名前に出会ったのである。21年前の前の想い出を書いて送稿したが、オマージュ(献辞)原稿はボツになっていた。若いデスクは、そんなレジェンドなどに付き合っておられないのだろう。


◆◇英文対邦文の結末◇◆


1986年、2度目の東京サミットで、今度は毎日新聞全体のキャップとなった。サミット取材の肝は、まず最終コミュニケのドラフトを入手することから始まる。スクープ記者であるS君を編集局の柱の陰に呼び、「ブツを手に入れてくれ、取材費はいくら掛かってもいい」。サミット本番の4、5日前だったか、早朝、自宅に電話が来た。「取りました」。「そうか、朝刊アタマで行こう。全文要約つきだ」


その数日後、朝日新聞が全文入手とトップで打ってきたのには驚いたが、真相はすぐ判明した。毎日が取ったのは正規の英文で、それをS君が自分で翻訳。一部わざと誤訳したという。出所を隠すためによく使う手である。朝日は外務省訳ということも明らかになった。だが、この「毎朝戦争」は意外な幕切れとなった。豪腕と謳われたベーカー(米財務長官)が大幅にコミニュケを書き変えてしまい、せっかく取ったドラフトの肝心な部分は見る影もなくなったのである。


このサミットのキーワードは「国際協調」であったが、その実、各国の経済指標により、とるべき政策に注文を付けるという相互監視型の「協調」である。最大の標的が日本にあったのは言うまでもない。一方、裏の主役は「円高」だった。前年9月、5か国蔵相・中央銀行総裁による「プラザ合意」が成立、一気に円安・ドル高是正へと歯車が動き始めた。1ドル=242円だった円は半年後のサミットごろには、160円台にまで狂騰、悲鳴をあげる産業界は、「ロン・ヤス関係」に歯止めの望みを託した。


サミットの前日の日米首脳会談がヤマだった。私の取材メモには、「ヤス円高に歯止め三度も要請、しかしロンこれに無言で答えず」。大蔵省担当記者からは「日米首脳、円高是正で基本的に合意」との大蔵省と市場向けの迎合原稿を送りたいと催促をしてきたが、一切無視した。大蔵省高官が使ういつもの手であり、実際もそうだったのだ。1986年の東京サミットで日本が最も望んだことはコミニュケに「為替の安定」を盛り込むことだったが、これさえ米国に却下されていたのである。


◆◇唯一の「特ダネ」◇◆


サミットが市民運動家、のちに過激派の標的になったのは2001年の伊ジェノバ・サミットからだったが、その萌芽は98年の英バーミンガム・サミットだった。きっかけは英国に本拠を置く「ジュビリー2000」というNGOが、ローマ法王庁などに支持され拡大した社会運動である。2000年までに貧困国債務の帳消しを目標に掲げて、「金持ち国の総代」としてのG8をターゲットに据えたのだ。

サミット取材唯一の自慢話を少しさせていただきたい。バーミンガムに着いて雑報記事を血眼で書いている後輩たちを尻目に、いつものようにまず現地の新聞、雑誌の情報を集める。社説とコラム、それに「週刊エコノミスト」誌に原稿を送るのが仕事だった。


ところが日本出発時に全く知らなかった情報を発見した。地元紙「バーミンガム・ポスト」の投書欄にそれはあった。なんと、そこに編集長自ら「明日はG8会議場に集まって【債務救済】のために人間の鎖をつくろう」と訴えているではないか。容易ならぬ新事態である。取材を開始したら、東京では一切報道されない「債務救済」という運動が欧州で拡大しつつあると知った。なにしろ「債務ゼロ」という言葉でさえも初耳だったのである。


翌日、新聞の指示通りの場所に取材に行くと、数千人の「人間の鎖」が会議場を取り巻いていた。相互に手を繋いでいた若者のひとりは取材に応じて「DROP THE DEBT」というビラをくれた。このビラは私の書斎に黄色じみていまもある。数少ない「記念品」だ。


初めてサミットを主宰したブレア(英首相)自身は、この債務免除運動をG8の華にしようと考えたのは当然だ。しかしコール(独首相)、橋本竜太郎(首相)、シラク(仏大統領)が反対して頓挫していた。クリントン(米大統領)は反対しなかった。裏舞台にはODA(政府開発援助)債権の多寡にあった。日本はG8で最貧国(HIPC)債権残高の44%、仏25%、独15%で英国、米国などはほとんどゼロだったのである。日本では「善意弱者志向のマスコミ」にあらぬ火をつけないために、外務省、大蔵省はサミット事前レクで随行記者団にブリーフイングせず、報道されなかったのである。サミットが終わったとき、私は社説とコラムでバーミンガム・サミットの本当の焦点はここにあったのではないかと書いた。


「グローバル化の『負』に対策を」ー「貧困克服」に目を向けよー


社説デスク(副委員長)はいまTBSでキャスターを務めている岸井成格だった。1本社説、しかも「人間の鎖」のAPの現地写真付きという異例な扱いで応えてくれた。数人の大学教授と国際金融エコノミストから、ほかの新聞にこの問題が掲載されていないのはなぜかと電話をいただいた。


帰国後にエコノミスト誌に「円借款から無償援助へ」を提言する原稿も書いた。欧米各国と比べて、あまりにもインフラ投資に傾斜した援助政策ではないかと感じたからである。案の上、外務省の課長と昼食をとる羽目になり、JICAの援助現場の視察取材を勧誘された。が、その時の話の勢いで断ってしまい、あとで後悔した。アフリカなどに取材で行ける機会はそうないからである。翌年の独ケルン・サミットでG8の債務救済が実現に向かったのは、反対していたドイツに社民系のシュレーダー政権が誕生したからである。しかも、ドイツはホスト国になったので局面は大変わりである。腰を抜かしたのは日本で、およそ1兆円のODA債権を紙切れにした。その処理には財政法との関連で財務省は四苦八苦していた。前述したように、日本のODA債権が異常に多かったのは欧米各国と比べて無償援助の比率が少なかったことによる。


◆◇ジェノバの暴動とロンドンのテロ◇◆


沖縄サミットのあとの2001年夏、イタリアのジェノバで過激派の活動がピークに達した。バーミンガム、ケルン、沖縄と平和的な抗議活動だったが、ジェノバでは、世界から「反G8」「反ブッシュ」を訴えるグループが集結した。個人的な意見だが、それを刺激したのは、直前のブッシュによる米国の「単独主義」と京都議定書の離脱宣言だろう。


コロンブスの生家があるジェノバは最初からピリピリしていた。伊政府は6隻の6万トン級のクルーズ船を湾に浮かべ、各国首脳、随行団、記者団を安全に収容しようとしていた。出発時に日本での有力NGOの代表から、「今度のジェノバは危険だから気を付けてください」というメールをもらっていたぐらいだった。世界から20万人(主催者発表)のデモ隊が集結、国際メディアセンターの近くでも、その激しい喚声が聞こえたほどである。その先頭に立っていた若者が亡くなった。ローマ支局長からイタリアで最大の労働団体の息子さんだと聞いた。軍警察の意図的な射殺だろう。双方に数百人の負傷者が出て、サミット史上最悪の惨劇となったのである。このサミットは小泉にとって最初の会合だったが、6回の記者会見で唯一印象的な記者会見だった。


同じ船で朝食を共にした筑紫哲也(テレビキャスター)は「サミットがこうした激しい抵抗を受け悲劇を生むことについて、日本の首相としてどう考えるのか」と詰めよった。私は筑紫を尊敬するジャーナリストの一人として、その質問を聞いた。実は週刊エコノミスト編集長のとき、筑紫は「朝日ジャーナル」の編集長で、相互に広告交換をしていた関係だった。ここで会うとは不思議な縁だったのである。


もう一つ、小泉会見でのエピソード。イタリア人記者から「今度のサミットをオペラに例えるとどうだったのか」。「今度のサミットはテノール、バス、そうソプラノもあって、いやソプラノはなかったけど、バリトンというように、それぞれいいハーモニーを奏でていたねぇ」。


会見が終わって質問をしたイル・マニフェスト紙のピオ・デミリオ記者が筆者のところに来て、「ソプラノって誰のことかな」「一音高いブッシュに決まっているでしょ」「そうか、ソプラノと言いかけて、慌ててソプラノはいなかったと言い直したからね」「恐らくソプラノ(ブッシュ)だけが会合の調和を壊したのだね」「テノールはやはりシラクかな」「サミット長老格の貫録だね。それならバリトンはシュレーダーでもいい。バスはホストのベルルスコーニにしよう」。


小泉の会見は、これを含めて6回出たが、爾後はほとんど外務官僚の指示通りで何の面白味もおかしくもなかった。6度目の会見は2006年のサンクトペテルブルグだったが、誰も聞かないので「この6年間のサミットの印象」を聞こうとして何度も手を挙げたのだが、いつもの「やらせ記者」の質問以外受け付けず、さっさと席を立ったのだった。改革派首相としてサミットにそれなりの発言を残すべきだったろう。


ベルルスコーニは「もうサミットなどやりたくない」と語りつつ、8年後のG8も結構嬉々とホストをラクイラで開催した。2001年「9・11」は同時多発テロで世界を揺るがせた年である。私はその半年前のジェノバがその前哨戦だったのかと、いまでも思っている。


さらなる惨劇がG8を襲った。2005年のスコットランドのグレンイーグルスのサミットである。初日の朝、ホテルのサミット・テレビでホストのブレアとブッシュの共同会見を見て順調に進んでいるのを確認していた直後、ロンドン地下鉄とバスのテロを知ったのだ。50人余りが犠牲となった。その10日ぐらい後にロンドンに戻り、昔通ったLSEそばのパブ「ジョージ4世」で飲んでいたら、支局長からパキスタン系英国民犯人逮捕の情報が入った。実に早かったのは、IRA(アイルランド共和国軍)対策で縦横に監視カメラが張り巡らせてあったのだろう。G8最大の悲劇になった。


◆◇ロシアの領土トラップ◇◆


いま世界を手玉にとっているプーチン(露大統領)。サミットで一番長く付きあったのは彼である。最初は2000年夏の沖縄で、父親の跡を継いだ北朝鮮の「謎多き元首」と会談してから那覇に乗り込んできたのだった。各国首脳はプーチンの初出場と金正日(国防委員長)への興味も手伝い、結構人気者だったが本筋に関係するはずはない。いま考えると、それから14年で世界とG8を揺るがす存在になったのはどうしてであろうか。


大変な戦略的策謀家であることを知ったのは、例の2001年「9・11」同時多発テロの直後である。傷心のブッシュ(米大統領)に誰よりも早くお見舞いの電話をし、「共にテロと闘おう」と誓う。プーチンはこの機転によって翌年G8のフルメンバー資格と06年のサミット開催権という大国としての報酬を得た。


そもそもロシアをサミットに引き込んだのはクリントン(米大統領)と地政学的に西側に囲み込みたいコール(独首相)だ。平和条約も結んでいない日本は強く反対した。コールはエリツイン(露大統領)にこう囁いた。「北方領土交渉を進めては。私が仲立ちをします」


これからは私の独断と偏見としよう。橋本龍太郎(首相)は、領土問題を解決したいとの強い想いも手伝って、やすやすとエリツインの「領土トラップ」に引っかかった。1997年の米デンバー・サミットで、クリントンはロシアのサミット参加を意気揚々と公表した。その半年後、クラスノヤルスク合意(2000年までに領土問題を解決し平和条約を結ぶことを目指す)が成立。翌年春、「川奈会談」につながったが、返還願望は一瞬の幻影に終わる。


1998年の英バーミンガム・サミットで正規にG8が誕生した。善人橋本は喜びのあまり、「2年後の日本のサミットの順番をロシアに譲る」と口走り、翌年以降のイタリア、カナダを怒らせて慌てて撤回した。せめてもの罪滅ぼしか、エリツインは退任後の04年、橋本夫妻をモスクワ郊外の別荘に招いて歓待し、「北方領土のことはよくプーチンに引き継いでおく」と語った。橋本のブログにはそうある。


「エリツイン自身は領土問題に積極的だったが、側近がそれを阻んだ」とする見方もある。だからといって日本を騙したことに違いはない。エリツインはその3年後に死去した。国葬には米国をはじめ、各国から首脳(クラス)が多数参列した。日本はモスクワ駐在の大使のみが葬列に並んだ。「葬儀に間に合う航空機がない」と弁解した。リベンジ(復讐)はいいが、少し子供っぽい。橋本の秘書官を務めていた江田憲司は「民間航空機はあったのです。然るべき人が行くべきだった」と強く批判した。


◆◇イデオロギーとしての原発◇◆


サミット・ウォッチャーとして最も衝撃を受けたのは、2011年3月11日の福島第一原発の深刻な事故の発生である。これは私が見てきたサミット政策の成果を、すべて喪失するような出来事だった。誤解を恐れず言いたい。サミットの核心とは何か、それは石油危機に端を発した、将来の壮大なエネルギー計画の構築と実現だったと考えられる。その希望の星は、自然エネルギーだけではない。石油に代わる現実的で最も重要な資源は原子力であることで、すべてのサミット首脳宣言は一致していた。「原子力発電の推進」はサミットのイデオロギーであり、「そのための安全確保」はサミットの求心力でもあった。


さらにそれを加速化したのは2000年代に入っての、いわゆる「原子力ルネッサンス」である。その先達を務めたのは地球温暖化の歯止めのため、緑の党などの一部グリーン派が原発推進に転換しつつあった。大きな変わり目は、05年の英スコットランドのサミットだった。私はこの時のシェルパ協議で原発問題が遡上に上がり、かなり先鋭的な議論が各国の間で交わされた資料を入手した。なんと米国はスリーマイル島事故以来、中止していた原発新設工事を再開する方針を具体化しつつあった。シュレーダー政権下のドイツでさえ、原発推進に前向きだった。メルケル・ドイツ首相に替わり明確に稼働推進になった。


◆◇ 日本サミットと原発の総括◇◆


不思議なことに日本ホストのサミット会合に限って、その直前に原発の過酷事故(シビア・アクシデント)が起きた。1979年5月の東京サミットで直前に、米スリーマイル島事故が起こった。東京宣言に原発安全が盛り込まれたが、これを恥じたのかカーターは帰国後、ホワイトハウスの屋上に太陽光パネルを設置し、自然エネルギーを2000年までに5割にすると宣言した。このパフォーマンスはカーターが核兵器拡散を恐れて自国以外の原発推進には極めて消極的だったからである。サミットではカーターとシュミットの4回にわたる角突きあわせが「名物」だった。どちらかといえば理論的で議論好きのシュミットと、地方政治家あがりで市民派のカーターでは、肌合いが合わなかったのだろう。とくに原発推進問題は両者の恰好の先鋭的な議論の火種だったのである。


次の1983年の東京サミットも、直前に旧ソ連のチェルノブイリ事故が起こった。この時の宣言は旧ソ連の安全対策の不備を厳しく批判しつつ、究極の安全への取り組みを誓う特別声明を出したほどである。


にもかかわらず、今度は日本でフクシマ事故が起きた。サミット官僚の直接責任とは言わないが、彼らはただ「原子力発電の安全性となおその推進」を書いて済むはずはない。この点だけ取り上げても、サミットの形骸化が議論されていい。サルコジ(仏大統領)が事故後いち早く日本に来た最初の大統領(首相)だったのは、日本の被災民をお見舞いに来たのだけではないだろう。同年の仏ドービル・サミットは、原発依存率ナンバーワンの自国での開催だったからであろう。もしこのG8で「原発見直し、凍結声明」が出されたら、フランスのエネルギー安全保障は根底から見直さざるを得ないという自己防衛だった。


お隣ドイツはこれを見てメルケル(独首相)は事故3日後にいち早く、2022年までの原発ゼロと決めた。いくらでも周辺国から電力を輸入できるドイツ。そのメルケルは、本来原発推進論者で日本の事故さえなければ、仏、英などとともに地球環境を守るという口実もあり、現状維持派だった。フクシマで見事ひっくり返った。


ひっくり返ったといえば、メルケル以上に原発推進派だったサミット最多6回出場の小泉のリタイア後の「原発即時ゼロ」発言の精神的な責任は、どう理解すべきか。「一次方程式の人」と簡単に笑うべきか、再びマスコミの渦の中で「正義のスピーチ」をする快感が忘れられなかったと理解すべきなのか。古臭い言葉だが、いずれ歴史というリアルな市場が裁くだろう。


◆◇ランブイエの風景と英語◇◆


40年前に、サミットの創設者ジスカールデスタンが最初に放った鏑矢は、「ランブイエ城」に突き刺さった。1975年11月の第1回サミットは、ランブイエを嚆矢とする。パリから電車で1時間弱にある、この小さなお城が6人の首脳の「お篭り」の場だ。三木武夫(首相)が出席したが、数人のお供とともに四層のお城の屋根裏部屋のようなところに通された。仏外務省の係官は「ここは狭いが見晴らしは一番です」と慰めてくれたそうだ。会合の使用言語は英語と決められた。日本が最も困ったのは通訳を入れさせないという仏官僚の主張だった。三木は戦前カリフォルニア大学などに4年間留学している。しかし、40年も昔の話、いまやパーテイー英語程度で、とても国際会議に耐えられるものではない。日本側は必死の陳情で何とか通訳を陪席させることに成功した。ところが収まらないのはほかの国だ。不公平だというので急きょパリの仏大使を呼び寄せることで、イコールフッティングとなったらしい。


この歴史的な会合には私の4年先輩、歌川令三(経済部記者)が現地取材を担当した。ワシントン特派員を経験したエース記者で翌76年の米国ホストのプエルトリコのサンファン・サミットも続けて取材した。帰国後、『先進国首脳会議』(教育社)を上梓した。2008年の洞爺湖サミットの直前まで中古マーケットで一時6万円を付けた稀観書になった。私は1冊いただいた本があるが、贈呈サインがあるので、そこまではいかないだろう。


来年のG8(G7)はドイツのミュンヘンの南、およそ1時間の高級保養地エルマウで開催される。翌16年、日本で6度目の会合が開かれるが、多分ホストは安倍晋三(首相)、復帰すればだが、プーチンはあの怜悧な顔で、オバマはレームダック顔で日本に来る。中国の習近平(国家主席)と韓国の朴槿恵(大統領)は招待されて現時点では嫌だろうけど来ざるを得ない。どんな顔をして訪日するのか、これが政治的な和解のきっかけになるのか。一番興味を持って見ているのは米国などほかの参加国だ。


生涯ラストのG8取材の現地はどこになるのだろう。少なくとも来春ごろには決めなければならない。かねてから軽井沢が誘致活動を続けている。だが、様々な状況と政治的な判断からすると、おそらく東北の地のどこかになる可能性が大きいのではないか。(肩書きは当時=敬称略)


(毎日新聞特別顧問 2014年7月記)

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