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兵庫銀行元社長・吉田正輝さん 破たん8年後に「真相」(西野 智彦)2014年6月

1990年代の大半をバブル崩壊後の金融報道に費やした筆者にとって、当時の取材先から聞き出す「後日談」ほど胸躍るものはない。


かたくなに口を閉ざしてきた関係者たちが「あの時は言えなかったのだが、実は」と語り始める瞬間――。聞けば聞くほど、当時の取材不足を思い知らされ、打ちのめされる。と同時に、無味乾燥に見えた経済ニュースの背後に、壮大な人間ドラマが隠されていたことが分かり、新たな取材への意欲をかき立ててくれた。


そんな後日談のうち、力不足を決定的に知らせてくれた人物が、兵庫銀行の元社長・吉田正輝氏だ。


吉田氏は大蔵省(当時)で銀行課長、銀行局長を歴任し、日銀理事まで務めた金融界の大物である。1993年春、経営難にあった第二地銀の兵庫銀行を立て直そうと、大蔵省の肝いりで送り込まれた。「その名を聞いただけで金融不安を払しょくできる」とされ、メディアは「大蔵省が背水の陣」とはやしたてた。


しかし、その2年後、兵庫銀行はあえなく経営破たんし、その後の金融危機の扉を開くことになる。吉田氏は大蔵省とともに責任を問われ、批判の的となった。「再建するどころか、力及ばず、つぶしてしまった」と。


とりわけ、経営危機が表面化して以降、しばしば大蔵省に姿を見せていたこともあり、「なりふり構わず、古巣に救済を求めていた」と受け止められていた。


そんな吉田氏から、ある人物を通じて「後日談に応じる」と連絡があったのは、破たんから8年たった2003年の春だった。


「敗戦の弁」を聞こうと乗り込んだ筆者に、吉田氏は意外な事実を打ち明ける。早期処理を求める吉田氏に、実は古巣の大蔵省が待ったをかけ続けていたのだ、と。


吉田氏が1995年5月、銀行局長に送った書面が残されている。


「もはや猶予が許されない状況と考えております(中略)微妙かつ困難な諸般の事情は十分承知しておりますが、早期に対策の実施をお願いする次第であります」


早期の対策とは、当時、銀行局内で極秘に検討されていた破たん処理計画である。吉田氏は、これ以上の延命は不可能と判断し、再三、銀行局に早期処理を働きかけた。しかし、当の大蔵省はなかなか動こうとしなかった。


破たん処理の先送りを通告してきた銀行局長に対し、吉田氏はこう抗議した、とも打ち明けた。


「俺が大蔵省のOBだからそんなことが言えるんだろう。民間の頭取が『つぶしてください。持ちません』と言ってきた時に、言えるはずがない」


吉田氏に限らず、自らの言動を手帳や日記に記録している官僚OBは少なくない。数日に及んだ詳細な聞き取りに対し、吉田氏は何冊もの手帳やメモをめくりながら、丹念に答えてくれた。


「俺自身は批判されてもいいんだが、子や孫のために本当のことも残してやりたくてね」


ぽつり漏らした一言に、「金融界の大物」としての意地を垣間見た気がした。


2011年2月、吉田氏は心不全のため死去。78歳だった。


日本の金融危機がなぜあれほどまでに深刻化したのか―。「多くの人からしっかり後日談を聞きなさいよ」。いまでも威勢の良い声が聞こえてくるようである。


(にしの・ともひこ TBSテレビ報道局長)

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