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ニクソン・ショック狂騒劇(第3章) ローマからスミソニアンへ(松尾 好治)2014年4月

ドル切り下げ、金価格引き上げ、輸入課徴金の撤廃が通貨交渉全体の解決のかぎとなる。十カ国蔵相会議がコナリー米財務長官を新議長に11月30日、12月1日の二日間ローマで開かれることが決まった。米欧の対立が解けるのかどうか不透明だが、最大の山場であることは、まず間違いない。通貨調整幅の議論に入った場合、日本はどう対応するのか、大蔵省幹部は私に会議を前にして「円切り上げ幅はドル5%切り下げを含め12・5-15%の範囲内と見るのが常識だ。今度の会議は対決だ」と明かした。この会議の後には既に通貨調整に重要な意味を持つと見られる独仏首脳会談が12月3日に、米仏首脳会談が12月13日―14日に予定されている。ローマの十カ国蔵相会議の失敗は許されない。この取材には共同通信社ではロンドン支局長の西崎哲郎さんと東京からは私が現地に飛んだ。バチカン宮殿から約1キロの地点にある古色蒼然たるルネッサンス風の建物、パラッツォ・コルシーニが会議場である。この道を隔てた反対側にあるファルネーゼ家の別荘ファルネジーナにはミケランジェロもたびたび訪れたといわれ、内部の壁にはラファエロの描いたデッサンが残っている。無論取材側に芸術作品をゆっくり鑑賞する暇があろうはずもない。会議場の近くの修道院に前進基地を設けたのだが、そこに行く時間的余裕さえなく、会議場とホテルとの間の往復に終始した“ローマの烈日”だった。


◆◇円切り上げ幅の大攻防◇◆


二日間にわたる会議の取材を通して、会議の冒頭、ボルカー米財務次官が平均11%の各国通貨切り上げ案、日本円については最大の約20%切り上げ案を提示したことが分かった。会議では通貨調整とのパッケージと米側が主張する貿易問題を巡り米欧が激しい応酬を繰り広げたのだが、米国は輸入課徴金について満足のいく貿易取り決めができたら撤廃することを約束し、ドル切り下げ、金価格引き上げに応じる意向を示したのだ。これは明らかに米国の態度が軟化し、米欧の対立がほぼ解けたことを意味していた。各国通貨の具体的な調整幅の論議に入る道が開けたのである。米国が事態の収拾に乗り出したのはなぜか。米国もここへ来て自らが譲歩しない限り通貨調整問題の解決のめどはつかず、世界的不況、世界経済のブロック化を招く恐れがあると判断するようになったのだろうと、私は解釈した。柏木雄介さんも後に、通貨不安がいつまでも続くと世界的大不況が心配され、米国景気の立ち直りに大きな障害になると感じたのだろうとの見方を述べ、さらに「(翌年に予定される)ニクソンの訪中、訪ソに表れる共産圏への新外交アプローチに先立ち、ヨーロッパや日本といつまでも通貨や貿易などの関係でけんかをしてはいられない」面もあったと指摘した。


会議の休憩時間に欧州側の代表はフランスのジスカールデスタン蔵相(後に大統領)らが外に出てきて多くの記者に囲まれ愛想よく応じていたが、私の知る限り日本の代表は顔を出すことはなかった。日本の孤立を象徴したかのような出来事もあった。二日目の会議は当初の午前10時開始の予定が拡大EC会議開催のため午前10時半に延びたにもかかわらず、日本側は知らないまま水田蔵相、佐々木日銀総裁とも10時に会場に入り、10時40分過ぎまで待ちぼうけを食わされてしまった。世界の経済大国にのし上がり、自国通貨の最大の切り上げ幅を迫られながら、日本の存在感は極めて薄く、会議の主役ではないということを、日本のメディアのほとんどが実感したはずである。


通貨調整の着地点は見えてきた。議長のコナリー米財務長官は会議の成果として「通貨調整は合意寸前に達した」とメディアに説明した。日本は会議で約20%の円切り上げ案に対して15%未満と突っ張ってはみたのだが、欧州諸国の間では20%はともかく、17,8%の円切り上げは当然と見る向きが圧倒的だった。12月17,18日にセットされたワシントンでの十カ国蔵相会議では具体的な通貨調整幅について最終的に詰める段取りとなった。3日のローマ共同電は「ドル切り下げを含めた多角的通貨調整がこのワシントン会議で決定することはほぼ確実となったが、この中で円の切り上げ幅は16-18%、1ドル=310円―305円程度の大幅切り上げとなる公算が大」とした。この分析が極めて的確だったことを後に結果が証明することになる。


スミソニアン博物館で開かれた十カ国蔵相会議では私は東京で現地取材をサポートするキャッチャー役だった。最終局面だから動きが目まぐるしく、参加各国代表団の口もますます重くなる。取材側が大変苦労したことは、各紙の紙面の見出しの数字が見事にばらばらであることから大体察しがついた。この会議の事実上のお膳立てをしたのは、直前にアゾレスで開かれたニクソン、ポンピドーの米仏首脳会談である。この会議の内容を日本側がつかめたのは、スミソニアン会議の前日の16日だった。十分作戦を練るような時間的な余裕は全くない。後日分かった記録を追ってみよう。フランスはドルの9%切り下げまではフランを追随させない、これに対し切り上げ幅はドイツの上乗せ6%、日本の上乗せ10%で説得する、ドルの交換性回復は長期的な問題の一環として考える、などで合意が成立していたのだ。この合意に沿って米国はスミソニアン会議で円を19%切り上げるよう強く要求したのである。


東京本社のキャッチャー役は17日、18日と完全徹夜となった。こういう大ニュースの際はメディアの社内では数字の当てっこをしたがるものだ。さて1ドル何円で決着するか、私は無論ゲーム感覚ではなく、それまでの取材の蓄積から310円で踏みとどまるのはまず無理で、308円だろうという説をとった。どうせ最後は腰だめ的に決めざるを得まいとの思いもあった。記録をたどると、日本代表団は米側の19%切り上げ、1ドル=302円の要求に対し、最初は14・3%、1ドル=315円がぎりぎりの線としたが、米国、欧州側からそれでは会議全体が解決の望みがなくなると、よってたかって攻め込まれ、16%切り上げ、1ドル=310円で何とか収拾しようと試みた。それでも欧州各国は17%以上の切り上げをと激しく迫り、結局16・88%切り上げ、1ドル=308円で決着したのである。17%をやや切りこんだ数字になったいきさつは、水田蔵相が「17%は昭和初期に金本位制に復帰した際の切り上げ幅と同じで、井上準之助蔵相が暗殺され、不況に陥った不吉な数字」としてコナリー財務長官に何とか削り込むよう粘ったからで、これは当時財務官室長だった行天豊雄さん(後に財務官、国際通貨研究所理事長)が回顧録などで明らかにしている。


スミソニアン会議では日本と西ドイツの対応が実に対照的だった。例えば水田さんが「日本はドル圏との貿易の比重が大きいので、対ドル切り上げによる打撃率は他国に比べ著しく高い。IMFやOECD案でも円の切り上げ幅は14・6%、14・3%ということであり、この辺が現実的に妥当な線」と主張したのに対し、シラー経済相は「ドイツ・マルクは69年10月の切り上げと変動相場制下の切り上げで既に21%の切り上げをしている。日本にはこのことを考えてもらわねばならない。ドイツ・マルクと円は4%は開いてしかるべきだ」と日本に向けた矛先が鋭かった。つまり西ドイツ側が自分の国はこうしたのだから、日本はこうせよと攻撃的なのに対して、日本の姿勢は防戦一方で全くと言っていいほど受身と映る。ブレトンウッズ体制の成立に深く関わった経済学者J・M・ケインズは「あらゆる国際会議はこと経済に関する限り、理論と公正を前面に出し、その実、力と利害の挌闘の場であることを忘れるな」と語ったというが、通貨交渉全体を通じて日本が海千山千の米欧を向こうに回して堂々と張り合った形跡は残念ながらほとんど見いだせない。


多角的通貨交渉の最終合意の第一報が入ったのは、日本時間12月19日午前7時35分。だが各国通貨の調整幅はそれぞれの国内手続きがある関係で現地では発表されない。ここはキャッチャー役の出番である。直ちに取材を開始、円は1ドル=308円に切り上げ、金価格は1オンス=35ドルから38ドルに引き上げ(ドルの8・57%切り下げ)、為替変動幅を上下1%から上下2・25%に拡大を確認し、速報した。これはどこよりも圧倒的に速く、海外ではロイター電などが共同通信のクレジット入りでキャリーし、私たち取材チームは大いに面目を施した。四カ月にわたる激闘にやっと幕が下りたのである。国際通貨は金と交換性のないドルで各国が介入し、その基準となる相場はドル建てで設定するドル本位制になったのだ。


帰国した水田蔵相に取材陣が最初に浴びせた質問は「予想を大幅に上回る円切り上げで、これは通貨外交の敗北ではないか」だった。蔵相はあらかじめこの質問を予想していたらしく「通貨外交の敗北とは思っていない。ニクソン大統領は今度の調整で勝ち負けはないと強調していたが、私の考えでもこの問題は最終的に勝った負けたと言える性質のものではない。敗北は全然ない」と強い調子で反論した。通貨外交を通じて米欧が主役で、日本は大事な場面ではそっちのけにされることが多く、世界第二の経済大国と持ち上げられて、いたずらに大幅切り上げを飲まされたという印象は一般的に確かにあった。事前の日本国内における大方の予想は大体315円、悪くても310円といったところだった。ただ、これを通貨外交の敗北とばっさり切ってしまうことは私はしなかった。この多角的通貨調整の合意は中間安定のためのび縫策、短期的決着にすぎず、勝敗を論議するに値しない妥協の産物、と判断したからである。ドルの交換性回復は長期的な問題として棚上げされたままで、国際通貨問題の根本的解決の方向は示されていない。日本国内では「スミソニアン体制」と名付けたところもあったが、私は「体制」には非ず、単なる「合意」にすぎないと社内で強力に主張し、それ以降も「スミソニアン合意」で押し通した。


最終合意の直後、「(円切り上げ幅が大きいけれど)これだって果たして日本の黒字が減るかどうか分からない。追加的な心理ショックはあるかもしれないが、それほど大したことはないだろう。十分影響を吸収していく弾力性が企業にあるだろう。(国際競争でも)あまり怖くないのではないか」とした岡昭日銀外国局次長(後に日銀理事、日本開発銀行副総裁、東京湾横断道路社長)の発言は的中していた。日本の経済はびくともしなかった。


◆◇割れ瓶は元に復さず◇◆


多角的通貨調整が成るかなり前の1971年10月の時点で中間安定が一体どれくらいもつものなのか、通貨当局者は早くも予測していた。「1年位しかもたないだろう」、「1年以上はもつだろう」など分かれてはいたが、短期説では共通している。スミソニアン合意後は大変な苦労を積み重ねて決着にこぎつけたため「少なくとも3年位はもってくれないと困る」というのが通貨当局の希望的な観測だった。だが翌1972年の年明け早々から国際通貨情勢が混乱する兆しが現れ始めた。米国の国際収支の節度に対する不信からドル不安が解消せず、欧州通貨の動揺が見られた。米国の国際収支は一向に改善されず、1973年に入るや欧州通貨の混乱から国際通貨危機が再燃、日本は2月に変動相場制に移り、欧州諸国も3月には変動制に移行した。スミソニアン合意は1年強しかもたずに崩壊した。壊れたIMF体制の瓶は元には戻らなかったのである。通貨交渉の米国の立役者の一人ボルカー財務次官はスミソニアン会議の閉幕に当たり会場を訪れたニクソン大統領の演説を聞きながら「(合意は)三カ月もてば上出来だ」と言ったという(ポール・ボルカー、行天豊雄共著「富の興亡」より。ちなみに本書は国際通貨問題の必読書)。1年強もったのだから「上々の出来」ということになろうか。


1972年7月から74年6月にかけてIMF20カ国委員会で国際通貨制度改革について一応の検討はすることはした。しかし関係国の利害が錯綜して成果はなく、これを引き継いだIMF暫定委員会は変動相場制を協定上の為替制度とし、ドルとの交換を停止していた金を廃貨することに合意した。


緊急避難、非常手段であったはずの変動相場制がその後いまだに続いている。ドルの地位には昔日の面影もないのだが、他に変わるべき通貨がないというだけの理由で、この価値の保証されないドルが基軸通貨として世界中にあふれかえる。変動相場制では国際的な不均衡はスムーズに自動的に調整されると宣伝され、石油危機はこの変動相場制のおかげでショックを吸収できたという。だが、国際的不均衡は調整されるどころか、ますます拡大し、米国の経常収支赤字も増大し続けた。ドルの余剰はとどまるところを知らず、金融資本市場の一体化で株式、債券、為替の三市場が互いに連動し合い、おカネの流れは一層巨大化する。このおカネを少しでも有利に運用しようとデリバティブに象徴される金融工学が世界的にもてはやされた。こうなると為替相場は短期的な国際的資本移動と金利差によって左右され、乱高下しやすくなる。これに便乗してギャンブラーが巨万の富を懐にするという類の話を聞く度に、資本主義は今や危機に瀕しているのではないか、と思わざるを得ない。為替レートは経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)とは全くと言ってよいほど関係なくなってしまった。変動相場制下の不安定は、レートの予測もつきにくくし、対外取引や直接投資の拡大にとって大きなマイナス要因である。おカネだけは依然あふれ続け世界のマーケットはいずこもまるでカジノのようだ。市場を管理できず、世界の金融は無秩序状態に等しい。金融波乱、保護主義の高まりの恐れも絶えない。ニクソン・ショックの余波はいまだ消えず、利益至上主義の欲ボケ・キャピタリズムという鬼子がのさばる結果を招いている。


スミソニアン会議で国際通貨の根本的な解決についてしっかり討議せず、確かな道筋を付けられなかったことは、まさに痛恨事である。国際通貨の新たな秩序を形成すため、世界経済に大きな責任を担う日本、米国、ドイツの三国は連携して今こそイニシアティブを取るべきだ。1973年に世界がすべて変動相場制に移行した際、アーサー・バーンズ米連邦準備制度理事会議長は「もう二度と固定相場の世界に戻れないのだろうな」と慨嘆したというが、不安定極まりない変動相場制が百年も続くのを許すわけにはいかない。


◆◇多角的通貨交渉の日本側立役者の横顔◇◆


●水田三喜男蔵相 堂々たる体躯の老練な風格を備えた政治家だった。大蔵省でほっと一息つける時間ができると、記者クラブに現れて記者を相手に碁の早打ちをやっていた姿を思い出す。学生時代はマルクス・ボーイだったそうだが、どこか書生っぽい雰囲気を残していた。スミソニアン合意で円の切り上げ幅が17%をやや下回ったのは、土壇場で水田さんがここぞとばかり粘り腰でコナリー財務長官を説き伏せたからだ。最終的にバランスを考えて物事を決める態度で一貫していた。昭和初めの金解禁と長期不況で暗殺された当時の井上準之助蔵相の例を通貨交渉の場で時折引き合いに出して大幅円切り上げを牽制していたが、「自分も畳の上で人生を終わらないのでは」と心配していたという。71歳で没した。惜しまれた早い他界は「 ニクソン・ショックの心労が響いた」と細見卓さんは見ていた。


●佐々木直日銀総裁 若いころから日銀のプリンスと言われていた。重量級のどっしりした体で、中央銀行総裁にふさわしい安定感があった。総裁在任中はいかにして中央銀行の使命を果たすかで、大変苦労した。政治からのプレッシャーが絶え間なくかかり、その間合いを取るのが容易ではなかった。ニクソン・ショックの前に第4次公定歩合引き下げを無理やり飲まされた際「田中角栄通産相は機関銃、水田三喜男蔵相はりゅう弾砲だ」と嘆いていたという。夜討ち朝駆けの攻勢には大分参ったようだが、おおむね嫌な顔をせず精いっぱい付き合った。ニックネームは直(ちょく)さん。その名前のごとく真っ正直な、誠実一筋の人柄だった。綿密に日記を記す習慣があり、通貨交渉の経過も詳細に記録していたはずだが、副総裁、総裁時代の日記の大半が生前の佐々木さん自身の希望で焼却処分されている。総裁退任後、経済同友会代表幹事の時代に訪ねた時、日本の次の世代に話が及んだ。三十代(いわば団塊の世代)の企業人がまとめた同友会研究部会レポート「新時代への適応」を指しながら、期待を込めるが如く「次の世代は大丈夫のようですよ」と語った佐々木さんの言葉が忘れられない。


●柏木雄介大蔵省顧問 大連生まれのニューヨーク育ち。日本語より英語の方がうまいと専らの評判だった。当時大蔵省切っての国際派であり、通貨問題では決定的な影響力を持っていた。本当に欧米当局者と折衝できるのは柏木さんだけと言われたくらいである。その柏木さんがニクソン・ショック直後、米国の意図を思い違えて東京外国為替市場を開き続けた。ニクソン政権と日本政府とのコミュニケーションが断絶していた時期だったので、さすがの柏木さんも米国の真意をつかめなかったのだろう。この後、情報収集のため欧米諸国を飛び回り、八面六臂の活躍をした。大蔵省のOBは「柏木君も大蔵省の枠内にあるので、かなり警戒され、情報を取れなかった点があるようだ」と同情的だった。大蔵省幹部と記者団との親善ゴルフ・コンペで柏木さんと同じ組でプレーしたことがある。私は大たたきをしてブービーメーカーになったのだが、プレーの終わりに「今日は楽しかった」と声をかけられ痛く恐縮した。日本の代表的な紳士だった。


●井上四郎日銀理事 日銀を代表する国際派で、水田蔵相が事あるごとに例に引いた井上準之助元蔵相の御曹司である。佐々木総裁は井上さんに全幅の信頼を置いていた。外国担当の仕事ぶりは魚が水を得たようで、エンジョイしている風情があった。話の中に「通貨交渉が越年するかどうかはアップ・トゥー・ユナイテッドステイツ(米国次第)だ」とか「今はペイシェンス(忍耐)が必要だ」とか、やたらに英語が入ってきたが、いつも歯切れがよく、論旨は明快だった。ニクソン・ショック直後は「多角的通貨調整はやろうとしてもできない。有史以来できた試しがない」と語っていた。実際には初めてできたのだが、前言を気にするような人ではない。怖いもの知らずで大胆に発言するのが井上さんの持ち味だった。金融機関とのスムーズな関係には随分気をつかっていた。スミソニアン合意の評価は「会議の後ドルが弱くなった。本当は何も解決していない。スミソニアン体制と言われるほどの体制は全くできていない。これまでにないドルの切り下げをやったので、多くの国もこれと同時に通貨調整をしたというだけだ」と冷ややかだった。裏表が微塵もなく、憎めない人柄が記憶に残る。


●細見卓大蔵省財務官 通貨交渉では、ストレスで胃潰瘍を患い、手術する暇もなく、薬を飲みながら外国を飛び回っていたことを交渉が終わった後に明かした。戦争中は陸軍将校として最初は中国東北(旧満州)に、次いでロタ島に派遣され守備隊長として言葉に尽くせない苦労を重ねた。この時の体験が細見さんのその後の人生に大きく影響した。大蔵省では主税局長を務めるなど税関係が多く、国内派で通っていたが、通貨外交も国内派の視点が重要になってきたと判断して竹内道雄官房長(後に事務次官、東京証券取引所理事長)が柏木さんの後任の財務官に推薦した。「先のことは分からない」ので、「こうなったら、こうしよう」とのこだわりのない方がよい、というのが信条だった。現実の激しい変化に柔軟に対応しようということなのである。内外にわたって視野がたいへん広く、大局をしっかり把握していた。ニクソン・ショック後の多角的通貨交渉の苦い経験を生かし、73年の変動相場制移行の際は実に手際よく采配を振るい、押しも押されもせぬ「国際通貨マフィアの一員」と称された。軍隊時代に生死の運命を共にしたかつての部下の人たちとの交遊を終生続けた。次のように箴言を多く残している。

「日本人はまず国際社会というのは全く違う他人が同居している世界であることを認識すべきであり,その上で他人にはエチケットを示すべきである。そうでなければ、ますます日本は“世界の孤児”に追いやられてしまうだろう」

「戦争はどういうものだったのか。雪に隠れて三里、五里歩く。本当に寒かった。天幕で宿営、朝起きると体はツララ。食べ物は皆凍っている。部隊に分けるため鋸で切り、幕舎に持ち込んで何とか食べた。水は雪を溶かして飲むしかない。日本軍の阿呆が今から満州、シベリアを取れると思い、四十歳以上の人を召集、使いものにならない兵を山というほど集めた。部隊としての効率的な動きはなかった。軍隊は目茶苦茶だった。軍人の功名心だけ満州でいやというほど見せつけられた。戦争中、日本国民としての扱いは全然受けていない。日本の最大の欠陥は、中くらいに賢い人はいるが、大きく賢い人がいないことだ」

「今から数年前に、日本経済の診断では名医がいない、“迷医”は沢山いる、(患部を)切るか切らないか言える人はいない、という話を聞いて感銘を受けたことがある。官庁エコノミストは数字の上でトレンドを追いかけているだけ、体温を診ているだけで、内臓を診ている人はいない。名医はいると思う。名医にリタイアはない。九十歳でも百歳でも現役だ。腹をくくってますます元気で活躍してほしい」(了)

(元共同通信記者 2014年3月記)
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