ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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文人経営者堤清二/辻井喬さん くるくる回る親指を止めてみたかった(嶋沢 裕志)2014年4月

ふわりと金色の羽根が舞い降りてきたようだ。私ごとき小粒な記者にバトンを渡してくれた毎日新聞の小菅洋人さんは2000年代半ば、共に静岡支局長として犯罪的に拙い〝芝刈り〟に励んだ同志。紙面では酒の嗜好と同様、辛口ぶりを競い合った仲だ。私にも「宿題」があった。


昨年11月25日に86歳で亡くなった堤清二/辻井喬氏である。2月26日、帝国ホテルで開かれた「お別れの会」には約2500人が参列。既に多くの珠玉の追悼文が掲載され、私の出る幕はない。氏を執拗に追いかけた記者として記憶に刻んでもらった自信があるだけだ。


セゾングループを担当したのは1988年秋。清二氏は54年、父・康次郎氏から池袋の百貨店の再建を命ぜられて入社。30年余りで「生活総合産業」を掲げる巨大グループを構築する。記者冥利に尽きると夜討ち朝駆けに燃えた。若造は怖さを知らない。何せ高校時代は吉本隆明氏、大学時代は小林秀雄氏のお宅へ押しかけたこともある。文学青年気分の延長だったのか、堤/辻井氏の著作の読破も決意した。骨肉の愛憎や葛藤をつづる文人経営者に迫ろうと背伸びしたのである。


ただ、広大な自宅はガードも固く、取材は至難の業。そこで堤氏が信州大学で行っていた講義の教室に潜入、授業後に急襲した。控室で質問を重ねたが、「それはないですね」という温和な声と裏腹に、組んだ両拳の上で左右の親指が糸車のようにくるくる回っている。いら立った時の癖らしいとは、いまは亡き先輩記者から聞いていた。悔しかった。


その後、親指の糸車には何度も遭遇したが、それを見なかったことが2~3回ある。1回は88年12月に世界的ホテルチェーンを買収した直後のインタビュー。宇宙船を思わせる代表室で、「基幹会社がホテルをどう利用するか宿題を投げたんです」と滔々と語り続けた。このニュースを某紙に抜かれた私はどん底気分だったが、へえ、経営意欲が旺盛な時は指が回らないんだ、と不思議な気持ちで拳を見つめていた。


もう1回は89年秋に北九州へ異動となり、あいさつへ行った時のこと。某幹部に「左遷か?」と言われた話をすると、氏の笑顔がはじけた。


94年に古巣に戻って以降、キャップ、デスクとしてセゾンの凋落・解体をチームで取材し続けた。「天才経営者」と称された氏のワンマンぶりを批判する論調が広がる一方、文化人ゆえに〝不良債権〟がつけ回されたことなどはあまり報じられない。


すっかり白髪頭になった私は4年前から、別の部署で日経の「シニア記者がつくるこころのページ」などの執筆に携わっている。ひとつ念願があった。いまや若者が酒も飲まない、車も買わない時代で、政治も混迷期。氏が現代社会をどう解読し、どんな新たな消費論を展開するか聞いてみたい。


手帳をみると、12年10月中旬にセゾン文化財団を通じてインタビューを打診。同月末には快諾をいただいた。取材も13年1月17日午後2時~4時と決まり、私は毎日、著作を読み続けた。膨大な作品量に驚く一方、私も「御用聞き記者」でなく、堂々と対談に挑みたい野望が膨らんだ。


だが、1月10日に財団から電話をもらった。「年末に体調を崩し、ドクターストップがかかりました。本人は乗り気なんですが……」。その後、何度か具合をうかがったが、ついに訃報に接した。「お別れの会」当日、カーネーションを持って献花台へ向かうと、文化人・辻井喬氏の明るい肖像があった。「なんだ、君か」。指をくるくる回す氏の声が降ってくる気がした。合掌。


しまざわ・ひろし▼日本経済新聞編集委員

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