ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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「百面体」の自分演じて逝った中上健次さん(鵜飼 哲夫)2014年2月

このリレーエッセーのバトンを渡してくれた共同通信の小山鉄郎さんは、小生にとって師匠にあたる文芸記者で、若い頃は金魚のフンのようについてまわり、取材姿勢を背中から学んだ。芥川賞発表直後の選考委員の懇談会にも顔パスで出入りしていたので小生はちゃっかり後に続くが、やれるならやってみろ、といった悠然たる風情で、文壇バーに連れて行ってくれたのも小山さん。文学のあれこれを教えてもらいながら、「抜いて」お礼するのが目標となった。


その名を初めて知ったのは、支局を経て文化部に配属になったばかりの1991年5月19日、作家・阿部昭の三回忌の席であった。初めて動いているのをみる古井由吉、黒井千次ら名だたる作家や編集者が参加した会で、右隣には中上健次がいた。「読売の新人です」と自己紹介していると、正面にいたまゆ毛の濃い人からだみ声が飛んだ。


「きょうは共同のコヤマですら来てはいけないといった内輪の会だ。なんで君がいるんだ!」


?? 当時はまだコヤマさんがいかなる記者なのかは全く知らない。困っていると阿部夫人が、「鵜飼さんは阿部の全集の取材をしていたので、きょうは私がお呼びしました」と声をかけてくれたので事なきを得、話を聞くうちに、だみ声の主は、島田雅彦やよしもとばなな、角田光代らを世に出した文芸誌「海燕」の名物編集長の寺田博さんとわかった。


寺田さんとは後に毎週、酒を飲んでは文学談を聞くようになり、酔った中上からビール瓶で殴られたという武勇伝も伺ったが、その時はまだ何も知らないウブな新人文芸記者は、ただただ緊張していた。隣の中上と話すうちに、つい軽い気持ちで、聞いた時のことだ。


「いま文芸誌などで5本ほど連載していますが、そんなにたくさん書いて大丈夫ですか」。小さな中上の目がいきなり三角になった。


「オレは作家だよ」


それがきっかけでこの益荒男と会うようになり、作家や編集者との文学論に勇んで参入して、「バカ記者は黙ってろ」と怒られたり、かと思えば、一人飲んでいると、「お前もこっちへ来いや」と招かれたりするようになった。その中上が、がんと聞いたのは数カ月後だった。中上のいない文壇バーは、重力を失ったように頼りなく、寂しかった。


しばらくして92年4月下旬に中上から電話があった。「話したいことがある」。入院中の病院近くの喫茶店で5時間近く取材した。100・以上あった巨体は40・台になり、ズボンはだぼだぼだったが、「オレは詩歌文芸の世界に不意の一撃(クー・デ・タ)をする」と意気軒高だった。そして、1年ほど前の出会いの頃のことに話が及ぶと、何本もの連載に挑戦したのは、「おれは被差別部落出身という神話性の中に生きているから風の又三郎みたいに珍しがられても本当の友達がいないという焦りだとか、怒りがあり、中上健次が百面体の中上健次を演じようとしていたのかもしれない」と回想した。


「でも、この暴走を食い止めてくれたのががんだ。がんが上手に私を破壊してくれて、やるべきことが見えてきた」と語り続けた。


それから4カ月後、中上は46歳で亡くなった。「撰ばれてあることの恍惚と不安とふたつ我にあり」(ヴェルレーヌ)。一人で想像し、一人で書く作家の孤独と自負を、あの時ほど感じたことはない。


うかい・てつお▼読売新聞社編集委員


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